黒潮開発利用調査研究と訪中国印象記

黒田一紀


 筆者は日中黒潮共同調査研究(JRK)の科学技術庁の派遣職員として、1990年8月17日〜29日に中国の調査船「向陽紅09」号に乗船し、青島で下船した後、9月29日に帰国するまで31日間青島、北京、杭州、上海と移動して滞在研究し、主にJRKの海洋生物研究に焦点をあてて交流と視察を行った。ここでは、その時の見聞と印象、さらに我国の黒潮開発利用調査研究の背景と発足の経緯およびその研究内容、そして中国国家海洋局の概要を紹介した。なお、JRKが始まった1986年から1990年までに両国の科学者の交流(乗船研究と滞在研究)は延べ約130名に達している。
  1. 黒潮開発調査研究の背景
     黒潮はフィリピン東方にその源を発し、台湾と石垣島の間から東シナ海に入り、大陸棚外縁に沿って北上し、トカラ海峡を通って本州南方に達し、さらに犬吠埼沖から黒潮統流に連なる海流であり、太平洋の西岸を流れるため地球自転の影響を受けて特に強流と発達するので、大西洋の湾流と並んで世界の二大海流として知られている。東シナ海の黒潮は九州西方海域において対馬暖流を派生し、日本海を流れて、津軽暖流、さらに宗谷暖流となり、各々太平洋とオホーツク海に流出する。このように、我国周辺海域は黒潮系水に洗われているので、黒潮は海運、漁業、気象、風土などに大きな影響を与えており、経済社会活動と大きく関わっている。
     日本人として初めて実質的な黒潮調査を行ったのは、中央気象台技師であった和田雄治で、1894年(明治27年)に九州、台湾間で海流ビンを用いて海流調査を行った。この頃が日本の海洋学的観測調査の最初である(宇田、1978)。昭和になって、調査船数も揃い、海運・漁業・軍事などの目的もあって、黒潮を含む大規模な海洋調査が行われたが、第2次世界大戦(1941〜1945)のため中断を余儀なくされた。戦後、船と物資の不足の中で海洋調査は細々と続けられたが、1954年頃から海洋三官庁を中心として組織的調査が再開された。その結果、黒潮は定期的にモニターされるようになり、黒潮の実態が次々に明らかになった。1964年からはユネスコの主催の下に国際黒潮共同調査(CSK)が日本、米、カナダ、ソ連、台湾、フィリピン、ベトナム、タイ、インドネシアなどの参加を得て開始され、1976年までつづいた。その後、1977年から西太平洋を舞台としてWESTPAC(西太平洋共同調査)に継続している。
     CSK調査に合せて科学技術庁は特別調整研究費を運用して、黒潮共同調査に関する研究(1965〜1968年)で海洋三官庁を援助した。その後も、特調費は三官庁の海洋調査を支援する形で継続し、日本海(1968〜1970年)、北方亜寒帯(1970〜1972年)、紀伊水道(1969〜1970年)、豊後水道(1971〜1972年)、東シナ海(1972〜1975年)、津軽暖流(1975年〜1977年)の調査が実施された。

  2. 発足時の経過と経緯
     科学技術庁は、1976年4月に黒潮調査研究検討会を発足させ、熱心な検討を重ねた末、海洋三官庁(水産庁、気象庁、海上保安庁水路部)による従来の海洋調査の枠をこえた新しい構想の海洋研究として黒潮をとりあげ、「黒潮の開発利用調査研究」(KER)としての実施計画を立てた。海洋開発審議会の開発部会と科学技術部会の合同報告書(1976年12月)においても、我国として緊急に実施する重要課題として、黒潮流域における総合的かつ大規模な調査の必要性を指摘した。
     この研究は当初1977年度から6年計画でスタートしたが、1986年4月に黒潮調査研究検討会においてさらに長期的視点に立って研究する必要性をみとめ、1986年までの10年計画として実施することになった。その目的とするところは、我国の海洋開発の一つの柱として黒潮に注目し、黒潮の有する莫大な生物生産力およびエネルギーの利用、そして黒潮のもつ海洋の浄化機能の活用など、黒潮の総合的開発を目指している。
     実施機関は、黒潮の調査研究に豊かな経験と蓄積をもつ海洋三官庁に加えて、科学技術庁海洋科学技術センターと東海大学の5つの機関である。総合推進母体は科学技術庁であり、研究の推進にあたっては、学識経験者を含めた「黒潮開発調査研究検討会」(その後、「黒潮調査研究検討会」と改称)を設置し、研究の計画の検討を行っている。
     第T期間中の1983年10月に東京で開催された第2回日中科学技術協力委員会において、中国側から黒潮の共同調査研究項目として「黒潮とその環境及び生物資源への影響」が提案された。それを受けて、日本側が検討した結果、ポストKER(U期)の10年計画の中に、東シナ海を中心とした「日中黒潮共同調査」(JRK)が1986年から7年計画で発足することになった。「日中黒潮共同調査」では、1986年度から調査船や研究者の交流が始まり、1987年には科学技術庁と中国国家海洋局の間で実施取り決めが締結された。
     その後、JRKを核とする黒潮開発調査研究の第U期は順調に推移し、1988年11月には東京で日中黒潮シンポジウムが開催された。日本と中国では毎年国内の成果発表会が催され、成果報告書が出版されている(後出)。そして現在、JRKは1992年度の最終年を迎えて、ポストJRKについて日中間で検討されており、日本ではこれを機に黒潮開発調査研究(第U期)も3年間を残して終了して、新しい展開を目指した海洋研究を計画している。

  3. 研究内容
     黒潮開発利用調査研究の第T期では4つの研究課題から構成されていたが、第U期からは黒潮域の大気海洋相互作用の研究が付加して5課題となっている。そして、各課題ごとに研究推進の主な担当機関が決っている(図1)。また、第T・U期を通じてのデータの収集と標準化については、海上保安庁水路部内にある日本海洋データセンター(JODC)が担当している。
     各プロジェクトの概要は次の通りである。
    1. 黒潮変動機構の解明
       黒潮の挙動と大蛇行の発生維持消滅機構、黒潮の流路・流速・流量変動の相互関係および黒潮水塊と他の水塊との相互作用を明らかにすることが研究目的である。この課題は他の課題との関連が深く、かつ、基盤となるものである。
    2. 黒潮の生物生産基礎機構の把握
       黒潮とその内側の沿岸水の挙動、プランクトンと卵稚仔の分布の実態、プランクトンと卵稚仔の分布に関する黒潮の役割および黒潮変動に伴う生物量の変動の法則性を明らかにすることが研究目的である。この課題は水産分野でかかえている沿岸と沖合域の再開発、適正な水産資源の管理などの課題に応える基礎資料となるものである。
    3. 黒潮浄化能力の把握
       黒潮および黒潮続流域の上〜下流間並びに沿岸と黒潮間における指標物質の分布調査を行い、黒潮の浄化機構と浄化能力を明らかにすることを研究目的としている。この課題は黒潮域の汚染監視システムの確立に資するとともに、環境容量の設定の資料となるものである。
    4. 黒潮エネルギーの把握
       数値計算手法を使って黒潮エネルギーの推定およびエネルギー利用に伴う環境アセスメントを行うとともに、強流域における流速分布とエネルギー流量の測定手法を確立することが研究目的である。この課題は黒潮エネルギー開発の可能性を評価する基礎資料として使われる。
    5. 大気・海洋相互作用の研究
       東シナ海における大気・海洋間のエネルギーの授受量と大気への伝達量を測定し、さらにエネルギーの伝達による気団の変質過程を明らかにする。そのため、海陸における観測結果の解析と既往の観測資料の統計解析によって、季節・海域別の特性を調べ、海面を通じてのエネルギー・運動量の鉛直輸送、海上の大気境界層の鉛直構造、気団変質機構について研究する。
  4. 成果
     この調査研究では現在までに多くの調査結果が得られており、それらは毎年開催される成果報告会で発表され、成果報告書として第T期には総合報告書を含めて10冊、引続いて第U期にも4冊が出版されている。その間1985年には、黒潮開発利用調査研究(KER)を海外に紹介することを目的として英文のレポートが発行された。また、1989年11月に東京で開催された日中黒潮シンポジウムの発表論文集が1990年4月に刊行された。 
     一方、中国でも毎年「黒潮調査研究学術交流会」という名称の成果報告会が開かれ、その成果論文集が現在まで3冊発行されている。
     調査結果を収集編集したデータ集は日本海洋データセンターによって第T期には9冊、第U期には4冊毎年刊行されている。同様に、海流、水温・塩分分布、力学的深度偏差を内容とする8巻の図集が、第T期に日本海洋データセンターから刊行された。第U期になると、日中黒潮共同調査の主旨に従って、両国の海洋データセンターの協力によって両国の黒潮調査結果をとり入れて作成されたアトラスが交互に計4冊刊行されている。両国語で書かれた題名は「日中黒潮共同調査」の成果をまさに表わしており、興味深い。
     1991年末現在の既刊の印刷物について別記にリストした。

  5. 中国の国家海洋局の概要
     JRKの中国側の対応組織である国家海洋局の概要を紹介する。
     中国では、国務院(日本の行政府にあたる)直属の国家海洋局が海洋行政の中心機関として位置づけられており、このほか、農牧漁業部・交通部・地質鉱産部・教育部・科学院などが海洋に関する業務や調査研究を担当している。
     国家海洋局は、海洋資源、海洋環境調査、海洋科学研究、海洋情報サービスなどの業務を担当するほか、中国全体の海洋諸施策の総合調整を行う総合的海洋管理機関であり、約10,000人の大組織である(図2)。別に概要を示した。

  6. 訪中国印象記
    −「向陽紅09」号乗船−
     8月17日午後5時連日の猛暑にうだる神戸港を科学技術庁の荒井・田垣氏、第五管区海上保安本部、海洋気象台の方々約30人と「祝中国向陽紅09海洋調査船一路順風!」の赤い垂幕の盛大な見送りを受けて出港した。同行者は海上保安庁水路部の鈴木兼一郎氏と南西海区水産研究所の斉藤勉技官であった。
     通訳は日本に滞在して東大海洋研究所で修士過程を卒業した栄学家氏(北京の海洋環境予報センター勤務)であり、持ち前のほがらかな人柄で乗船中終始世話をやいてくれた。夕食後、調査団長(張季棟氏、北海分局長)に挨拶をし、調査主任の郭炳火氏(第一海洋研、海洋物理専攻)から調査計画と予定の説明を受けた。今調査航海は神戸寄港があったために研究者(海洋物理20人、海洋化学12人、海洋生物6人、気象2人)約40人のほかに、船員を含めて約70人が乗船し、総勢110人余とのことで、分局長自ら団長として来日したとのことであった。郭氏とは彼が1989年12月水路部に滞在中お会いしたことがあり、久々の再会であった。今航海では天候に恵まれたため調査計画の大部分を神戸入港前に終了し、帰路には東シナ海で2定線を観測することと7月下旬に設置に失敗した係留系を探索する予定である旨の説明を受けた(経路は図3)。
     翌日船は紀伊水道沖に南下したが、ジャイロコンパスの故障と台風12号・14号が南海上と東シナ海にあるため、午後北上して紀伊水道の徳島沖に投錨待機することになった。その後の台風の動きはゆっくりとしており、21日になって台風12号が大きい勢力のまま中国に上陸した。しかし、14号は発達しつつ日本の南方海上を西北西進しているため、夕刻抜錨して大阪湾に逆戻りして再び神戸のみえる沖合に投錨した。22日には台風14号は豊後水道に入り、23日には日本海に抜けるコースをとったため大阪湾でも平均15m/s位の南風が吹き荒れた。台風の通過後、ようやく24日朝抜錨して東シナ海へ向かった。この間、船の状況を神戸にある第五管区海上保安本部と連絡するため、水路部の鈴木氏が大活躍し、団長と船長から謝意が表せられた。黒潮を横切り凪の海を航海して26日午前には東シナ海(28゚30′N 127゚E付近)で係留系の捜索を行ったが、結局みつからなかった。夜21時頃から観測ラインに入り、約1昼夜足らずで15測点の調査を終了して青島に向い、予定よりも早い29日の午後には青島の人となった。
     「向陽紅09号」は排水量4400トンの可変ピッチバウスラスター付きの近代船であるが、巡航速度は就役時(1978年上海で建造)の速度(16ノット)は出ず、現在約12ノットである。全長は122mもあり、舷側を歩いて運動不足を解消することができる。
     海洋観測はニールブラウン製のCTDにニスキン型採水器を装置して、水温・塩分の測定と採水(溶在酸素、PH、栄養塩、クロロフィル、重金属など)を能率よく迅速に行っており、それまで聞いていた調査状況とは全く異なるものであり、中国の海洋調査が年々急速に進展していることを伺わせた。帰路の観測ということで、ネットによる動物プランクトン採集と水中光度計やC14を用いた生産力の観測を中止しており、見学する機会がなかったのは、残念であった。機器では塩分計・分光光度計・水色計は中国製であり、蛍光光度計と水中照度計・CTDがアメリカ製であった。日本製のものは光電製作所のカラー魚探と古野電気KKの超音波流速計が装備されていた。
     船内では2人部屋に居を与えられ、三度の食事は部屋まで運んでくれるという殿様待遇をうけた。乗船者が多く、かつ夏の航海ということで、清水の使用には制限があり、清水の給水は朝7時15分からの約5分間で30〜40リットルの水を1日分としてポリタンクに貯水する。従って、夏の航海としては大変きびしいものであったが、乗船者は何の苦もなくゆうゆうと船の生活を楽しんでいるようにみえた。食事は日本人のために気をつかっており、質はともかく量は充分あって本場の中国料理(?)を楽しんだ。また、飲物とアルコール類は十分に提供され、特に中国ワインは実に美味であった。さらに、ニュースの少ない船内の生活の中で、2〜3日に一度黒板を利用した見事な壁新聞(?)が登場した。
    −青島滞在−
     青島は風光明媚な軍港であり、避暑地としても名高い。ドイツ風の建物が残る街並みは中国では異色の感じがする。エビ・カニをはじめ新鮮な海産物も多い。訪問した頃は夏休みの終りで、海水浴と避暑の観光客が多く、中心繁華街である中山路や青島棧橋は混雑していた。また青島には、滞在研究を行った第一海洋研究所のほかに、北海分局、科学院の海洋研究所、水産科学研究院の黄海水産研究所、同漁業工程研究所、青島海洋大学などの海洋・水産関係機関が重点配置されており、中国海洋研究のメッカと呼ばれている。
     12日間の滞在期間中、研究所では海洋生物研究室において、旧友の費尊楽氏(海洋生産力)およびの孟凡氏(動物プランクトン)などと意見を交換し、そして2回の講演を行った。
     第1回目は「日本の黒潮開発利用調査研究の概要と水産庁水産研究所の組織について」、第2回目は「潮岬沖の黒潮前線付近における生物生産の維持機構について」という題であった。その合い間をみて、市内観光、清玉寺観光、そして市内にある北海分局、小麦島海洋站、青島海洋大学、黄海水産研究所などを見学することができた。3人の日本人のために歓送別会を4回も催してくれ、ホテルの食事とともに本場の中華料理と青島ビール、アルコール度50%以上もある高梁酒、それに中国ワインを堪能した。日本と同じく、連日暑い日が多く閉口したが、初めての経験で緊張のうちに無事にすごした。
     海岸に面した通りにあるホテル付近の公園では朝早くから太極拳や体操する人であふれ、中国の人口の多さとその熱気を感じた。別に見学先の概要を記す。
    −北京訪問−
     思い出多い青島を12日夕方発って、初めての汽車旅行で北京に向かう。中国の汽車は「火車」といい、軟臥(寝台車)と硬臥(普通車)に分かれており、軟臥車は1車両に4人部屋が8つある。明けると、ユーラシア大陸東の中国の悠久の大地を走っていた。車窓にはひまわりやとうもろこしなどなどが目につき、ポプラの木も多い。北京・青島間は約669q、汽車賃は1人225元(当時、一元約33円)、中国人一人の1ヶ月分の給料以上である。11時25分首都北京に到着、約22時間10分の所要時間であった。ホームに出ると、女性が日本語で話しかけてきた!范さんだった。彼女はJRKで何回も訪日し、日本では国家海洋局の若い美人通訳として有名な人で、筆者も東京でお会いしたことがある。一流ホテル「民族飯店」に宿をとり、午後、ホテルの近くにある国家海洋局を表敬訪問して国際合作局の局長に挨拶し、中国の黒潮研究が順調に成果をあげていることを伺った。午後、待望の北京市内の観光に出かけ、范さんの名ガイドで天安門、故宮博物館を案内していただく。故宮は1420年代に創建された紫禁城で、壮大な規模と往時の華麗さがしのばれた。北京の街は9月下旬開催のアジア大会を間近に控えて、清掃がゆきとどき、随所に花壇を設けて色を添え、広い街路に建物と緑が調和して、世界でも一級の堂々たる大都市との印象を受けた。人口は約1,200万人で、街路には自転車がここでも目立つ。
     14日金曜日は最高の日となった。念願の万里の長城へ!夜半の雨がやみ、今秋初の「北京晴れ」となったうえに、案内役には「向陽紅09」号で通訳の栄さんが来てくれた。北京からの街路にはシラカバに似た楡の並木が延々とつづき、広大な原野に調和している。約1時間半で長城(八達嶺)についた。観光客も多く、長城には多くの人がうごめいているのがみえる。中国では毛沢東の言葉「不到長城非好男」(長城に登らずして男子にあらず)があるとか。40p3位の石を羊を使って積上げた長城の上は幅6m位の道になっている。さわやかな秋風が気持よく感じる。急な石段を登り切ると見張台があり、大平原のかなたに見事なモンゴルの白嶺がみえる。どこであろうか? 長城は渤海に面する秦皇島からシルクロードの奥地敦煌付近まで約6000qに達しているという。人類の残したこの壮大な遺産に圧倒されて、快晴の日を気持ちよくすごした。帰路には明代の13陵の1つである定陵を見学する。すっかり中国に陶酔した北京の夜の晩さんは北京ダックであり、再び二日酔となった。
    −杭州滞在−
     北京で同行の水路部鈴木氏が帰国し、いよいよ一人旅となった。15日15時に北京を発って、二度めの夜行汽車で旅すること29時間、16日19時10分杭州の地を踏んだ。駅では黒潮グループのリーダーである袁耀初氏、若い苅紅斌氏、通訳の張必成氏の出迎えをうけた。宿は、有名な西湖の畔にある最高級のホテル「杭州西湖国賓館」で、最近まで毛沢東の別荘として使用されていたとのことであった。
     12世紀南宋の都として西湖の畔に発達した杭州は歴史のある風光明媚な浙江省の都である。街は青島や北京とは異なる落着いた地方都市という感じがあり、幹太のフランスプラタナスが堂々と並んでいる。自転車が多いのはどこでも同じである。筆者もホテルで自転車を借用して、湖畔を遊行した。ここでは第二海洋研究所に毎日通い、16日に所内見学、午後に第一研で行ったと同じ内容の講演を行い、多数の質問を受けた。研究所では生物研究室で交流する時間を多くとった。若い研究者が多く、積極的である。よくみると次々に人が交代して対応しているようだ。研究所の散髪屋でお世話になり、頭もすっきり、中国の生活にも慣れてきて体調も良好となった。市内観光には、西湖の船遊覧、逆流で有名な銭塘河近くの六和搭、黄竜洞、呉山に案内いただいた。頂度街では金銀の木犀の花が咲き始め、その香がただようよい季節となり、西湖の公園では柳の緑が実にさわやかであった。長旅のせいか?ホテルの女性が美しい。なお、別に第二海洋研究所概要を記す。
    −上海滞在−
     24日00時すぎ上海着、杭州から5時間の汽車の旅であった。深夜の到着にも拘らず、通訳の梅氏が出迎えてくれ、中心街にある「七重天賓館」に宿した。
     上海は人口約1200万人の、ビルが林立する大都会であった。北京とは異なり緑が少なく、中心街の南京路は人の波で、車と人が溢れていた。ホテルでは毎晩ディスコが開かれ、中国でも先端を行く街との印象を受けた。朝は裏通りの街路で自由市場が開かれ、野菜や魚・肉などを売っている。海産魚の鮮度は悪いが、淡水魚は活魚である。見学には東海水産研究所と上海自然博物館を訪れた。市内観光には通訳の安女史と弁公室の孫氏が案内してくれ、有名な玉仏寺を訪ねた。東海分局では「日本の黒潮研究と組織および水産研究所の紹介」、そして、博物館では「黒潮前線付近における初級生産力の維持機構」という題で講演を行った。なお、国家海洋局東海分局と水産科学研究院東海水産研究所の概要を記す。
  7. 終りに 
     乗船を含めて44日間にわたる初めての中国訪問は終ってみれば、好奇心の毎日であり、あっという間に緊張のうちに過ぎ去ったように思う。広大な国土、長い歴史、世界一の人口をもつ中国の大きさに「群盲象をなでる」の感であった。
     中国における組織的な海洋調査は1958年に始まるが、本格的な発展は1980年代に入ってからで、最近10年著しい成果と実績をあげている。それは、「日中黒潮共同調査」の中でも現われており、年々の進展が伺われることでも理解できる。また、訪中した日本の研究者は、中国の黒潮調査の取組みに対する熱意と意欲に敬意を表する報告をしており、訪日した中国の研究者はそれを行動で示している。中国における「日中黒潮共同調査」に対する評価は高く、予算面という内部事情も含めて力を入れており、今後の継続を望んでいる。
     一方、日本では、海洋関係では多くの調査研究が同時進行しており、全般に人材難による対応力不足を感じている。両国において多数の研究成果が得られているが、未完成で研究課題の目的とするところに達していない。科学技術庁の特調費を継承して発足した黒潮開発調査研究(KER)は各官庁の経費の底上げ的性格が残っており、長年続いた海洋三官庁体制による海洋研究からの打破と脱皮の試みが多くなされたが、十分な実績につながらなかった。しかし、その萠芽は将来につながったように思う。ポストKER(JRK)が検討されている現在、黒潮開発調査研究の主旨を継承した、そして日中共同研究の実をあげるような新たな課題の設定が望まれる。今回訪問して中国には若い研究者が多数いることを知り、その人材の豊富さに驚きを禁じえなかった。その人材は特に30代と20代に多く、内部での競争が激しいのであろうが、10年後の躍進が保証されているように思う。Chen(1983,84)は中国の海洋学の歴史に関する記述の中で次のようにのべている。「中国の海洋学はまだ若く、学問水準は他国に比べてまだ低い。地球の71%は海であり、海洋は人類共通の食糧資源の源泉である。外国と共同研究して人類のために知識を蓄積せねばならない。中国の海洋科学者は、人類の財産を追求することを海洋学の最終目的の1つとして、使命をもって研究することを望む」と。実際、中国の漁業生産の将来展望として21世紀には1800万トン(1989年:1,150万トン)を目標としており、中国における海洋調査研究の重要性と必然性が伺われる。黒潮共同調査における中国の海洋生物研究は、分類・形態学研究を主とした基礎的な生態研究が多く、若手研究者の今後の動向が注目される。生産力研究にも意欲的でC14を使用して日本では得られないデータが蓄積されつつある。
     中国では、水産資源、赤潮、海洋汚染などにも深い関心がはらわれており、地球環境、自然保護の立場からも今後の海洋生物研究者の課題は多く、責任は重い。また、日中黒潮共同調査の海洋生物分野では国別研究が主体を占め、共同研究への研究交流は不十分であった。しかし、各々に研究の基礎固めができ、共同研究への萌芽をつかみ、今後の共同研究へ展望をつかんだと考えられる。ポストJKRでは、共同で追求する課題の設定や、共同調査、共同研究作業(採集標本の処理解析など)、両国にある既存の標本の活用などを含めて、研究課題の実行の際に具体的に組入れる方向が望まれる。何しろ、地理的に近い両国はほぼ共通の生物相を有し、対象生物を同じくするという好条件に恵まれている。
     中国の海洋行政組織である国家海洋局は一つの強力な組織体制であるのに対して、日本のそれは戦後に分化した組織のまま50年近く経過しており、さらに分化の傾向がある。将来、日本の海洋関係組織が集中化の方向を目指す時には、中国の海洋組織の経験と成果は参考になると考えられる。

参考にした主要文献(成果集以外)

Chen, C. K. (1983・84) Oceanography in China. Oceanus, 26(4), 3-8.
淵 秀降(1991) 自然とのふれあい半世紀余(自己開発の人生・金婚記念). pp.690, 東海大学出版会 (東京)。
平野敏行ほか(1985)黒潮調査研究−KERの成果−。海洋科学,(177),p.134-196. JODCニュース、32号、1986年3月
中村保昭(1989)日中黒潮共同調査日中合同シンポジウム開かれる。西海水研ニュース, 63, 18-22.
中村保昭(1991)日中黒潮共同研究報告書(平成2年度),pp.29.
中村保昭(1991)中国の水産・海洋事情(1)黒潮研究の実情。西海水研ニュース、67号,p.12-19.
宇田道隆(1978)海洋研究発達史、海洋科学基礎講座補遣。pp.331, 東海大学出版会(東京)。

(資源管理部 漁場生産研究室長)

Kazuki Kuroda

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