【寄稿】

東北海区サンマ漁業創始100周年

福島信一



 近年,マーケットの魚売場には,内外の様々な魚が並び,様変わりしたが,秋の味覚サンマの人気は衰えないようである。漁獲量も,経年変動が極めて大きい沿岸性のイワシ・サバに比べ,安定性のある外洋性の大衆魚で,毎年秋には話題にのぼる。また秋の季語として,歌や俳句に登場し,広く庶民に親しまれてきたが漁業の解禁が1カ月ほど早まり,残暑の候に漁獲,陸揚げされるようになった。旧法の解禁日であった,1997年9月21日,朝日新聞論説委員の小池民雄氏の,「サンマとレモン」の記事が目についた。
 これを要するに,「サンマを文学史に残したのは佐藤春夫(1892〜1964)で,あわれ秋風よ・・・で始まる“秋刀魚の歌”で定着した。江戸時代までは“目黒の殿様”の落語に登場する程度で,俳句に本格的に姿を見せるのは大正以降,佐藤による復権と前後する。秋の季語として定着しているサンマが,何故それ以前に,俳句や俳諧に詠まれなかったのか,不思議である。」そこで小池氏には,サンマが広く流通し大衆魚となったのは,東北海区漁場が開発され主漁場となり,漁獲が急増した大正5年頃からである事をお伝えした。
 筆者は1950年から30年,水産庁東北区水産研究所に於いて,サンマ漁業資源の調査研究を担当した。すでに漁業の変遷・漁況海況変動機構などについて詳述した(福島1979)。それらによると,東北海区サンマ漁業は,福島県の漁業者により,1905年(明治38)に企画・創始されたので,本年は100周年の節目に当たる。従って本漁業は,他の漁船漁業に比べ,ずいぶん新しい漁業なのであるが,その史実は上記のように,意外に知られていないので,新知見も加えて,拙稿の掲載をお願いした。

1.本州南岸の旋網漁業時代
 わが国のサンマ漁業が,延宝年間(約330年前)に熊野灘に起こった事は,水産高校の教科書などにも見られる。河村瑞軒が西廻り,東廻り航路を開いた年代である。この頃,三陸では唐桑村鮪立(しびたて)の漁業者が,紀州の漁師から鰹釣漁を習い,普及に努めたので,漁獲量も桁違いに急増した。しかしサンマ漁業は,元禄年間(約310年前)に安房国に伝わり,伊豆地方にも普及したが,明治時代の末までは,千葉県以西の本州南岸各地先で営まれていた。カツオ釣漁のように,東北海区へ伝わらなかった主な要因は,当時の漁具・漁法と,サンマの回遊特性によるのである。
 サンマ漁業は発祥当初から,カツオ釣漁や八手(はちだ)網漁などの副業として営まれ,漁具は専用の旋網が使用された。紀伊国のサイラ網は,長さ114〜76m,丈33〜18mの扇形の網で,カツオ船2隻,サッパ船3隻の船団で,漁夫50人前後が乗組んで操業した。安房国のサンマ網は,親網と手網からなり,全長290m,八手網船2隻,口船1隻で,乗組漁夫35人ほどを要した。伊豆大島では,当初は4艘式旋網で,漁夫48人を要した。大仕掛けすぎるので,網船(5〜7トン)と伝馬船各1隻,漁夫10数名で操業できる本格的な流旋網に改良した。各漁場いずれも船団操業なので,漁船の行動範囲は狭く,沿岸に限られ,かつ大規模なので,多額の経費を要した。
 1912年(大正1)農商務省水産局発行の,日本水産捕採誌全によると,秋刀魚は東海にて多く漁獲し,関東ではサンマ,関西ではサイラと称し,安房・志摩・紀伊国が盛漁地である。安房国の秋刀魚漁は,東海岸の七浦・千倉浦に盛で,漁期は陰暦9月中旬〜11月末で,近海各地から廻船入漁し,頗る活況を呈した。天気平穏の日に出漁,魚群を認めると左右網船を接近し舳をならべて舫い,親網と手網をつなぎ等分に積載し舫を解き,左右に漕ぎ分かれ魚の進路を遮断し,網を張り終えると2船は相会し舫をなし,揚網し魚を魚捕に集め漁獲した。捕魚が3船に満ちると大漁と称した。しかし平穏なときはよいが,熊野灘に於いては,1892年12月の盛漁期に大時化のため,漁船60隻と共に,乗組員の行方不明229名という,大遭難事件もあったのである。
 1890年に府県制・郡制が公布されたが,その数年前に,県の史員がとりまとめた「陸前国宮城郡地誌」は,35頁・32項目にわたる力作である。その物産の頁には,水産物24種が記されている。鯛・鮃・鰹・鮪・鰯などの生産量が,1駄・2駄・・・の単位で,魚種別に記されているが,秋刀魚の記載は何処にも見当たらない。この資料から,当時の三陸漁場に於いては,秋刀魚は漁獲されていなかった事が判る。なお当時は,水産物も馬の背で運んでおり,同郡の馬は4,817頭も飼われていた。
 一方1890年頃から,サンマ漁業に兼用していたカツオ船などの大船は,次第に八丁櫓などの操櫓船から帆船に移行した。耐波性など西洋型に劣るが,帆走により行動範囲は拡大し,沖合10数海里まで出漁可能となった。しかし,旋網を用いる大仕掛けな船団操業の実態は変わらなかった。このため漁場は,外洋性のサンマが黒潮により陸岸近く来遊する,千葉県以西の本州南岸の岬や島しょの東側に限られていた。従って旋網漁業時代には,海況による漁況変動が大きく,年漁獲量は1,000〜5,000トン程度で,安定した経営は困難であった。さらに千葉県下に於いては,明治時代の末には沿岸来遊群が減少し,漁場は逐年沖合に移り,漁業者は不況を嘆じていたのである。
 
2.漁業情勢とその大変動
 わが国の水産海洋研究は,諸外国に比べ大幅に遅れていたが,1889年には水産伝習所が創設された。府県制公布・施行後の1894年には,愛知県水産試験場が創立された。これを機に各県に水産試験場(以下では水試と略)が,相次いで設置された。こうして以後,各水試により,調査・研究は科学的に,組織的に推進されるようになった。千葉県水試は,漁業者が不況を嘆じていたサンマ漁業対策として,イワシ刺網の小晒(こざらし)網に着目し,サンマ漁具への改良を計った。
 刺網は網目に魚体を罹らせて漁獲する漁具で,海の上層で使用する流網,中層に張下する浮刺網,網の下縁を海底に接する底刺網の3種がある。千葉県水試はサンマの習性・遊泳行動などを参考にし,流網を考案・試作した。1905年(明治38)に同水試は,指導船清澄号により,試作した流網の試験操業を実施した。新作の網は手軽で,操業は容易で,何より単船操業なので行動範囲が大幅に拡大し,この年は漁期が遅れ,来遊群が少なかったが,好成績を収めることができた。こうして千葉県水試の努力により,サンマ漁業は旋網船団から,単船操業の流網に,漁法転換する事により,行動範囲の大幅拡大の途が開かれた。
 一方,漁船は漁業上もっとも重要な役割を果たすが,1890年頃から櫓船から帆船に移行して後の改良はかなり遅れた。1906年に静岡県水試が,石油発動機付西洋型カツオ漁船富士丸(25トン)を建造した。同船がカツオ釣漁で好成績を収めたのが刺激となり,水産業界には無動力船に替わり,西洋型発電機付帆船が普及し,2年後には静岡県下では数隻が建造された。それまで西洋型は吃水が深く,エンジン音で魚群が逸散すると,建造が躊躇われていたのである。千葉県水試は1907年に板東丸(ケッチ型19トン),福島県水試は1909年に奈古曽丸(19トン25馬力,後に遭難),宮城県・岩手県も新鋭船を建造し,各県水試の指導船が,新漁場開発等に活躍するようになる。
 
3.東北海区サンマ漁場開発
 1905年に千葉県水試が発明したサンマ流網が頗る好成績を収めたので,早くも同年はじめて福島県の漁業者が,この漁業を企画し,12月に着業した。従って今年は,東北海区のサンマ漁業が創始され,100周年の節目に当たる。この年は漁業の開始が遅かったので(例年の終漁期),翌年以降は10〜11月に着業したが,当初の3カ年は,ほとんど見るべき漁がなかった(1906年は1,968kg)。その後1908年18.5トン,1910年66.3トン,1912年(大正1)には987トンと急増した。さらに1913年には着業船44隻で,2,439トンと倍増以上であった。この要因は,漁船数の増加と大型・動力化に加え,明治時代の末までは,小群で不良であったが,大正時代に入ると大群が来遊し,豊漁に転じたのである。陸揚金額は1911年の6,240円から,1913年には82,698円と,13倍余りに達した。
 宮城県下に於いては1908年に,茨城県の村上吉郎が牡鹿郡女川村尾浦を根拠に,カツオ釣漁を経営中に副業として,10〜11月の夜間漂泊時にサンマ流網を使用,その有望性を確認した。この試験操業の成果により,間もなく宮城県の漁業者も着業し,隆盛を見るようになった。漁場は金華山沖10〜30海里であったから,旋網を用いた千葉県漁船の距岸5〜10海里と比べ2〜3倍も沖合であった。当時のサンマ流網漁業は,よいた船(7〜8トン)に漁夫16人ほど乗組み,夕刻出港して漁場へ向かった。操業は潮流を横切って投網し,船は網の一端を保持して流れ,夜半と翌朝日出前の2回,揚網して羅魚を獲った。
 三陸沖サンマ漁場の中心である岩手県下に於いては,1910年(明治43)10月14〜15日に,宮古水産学校の初音丸(7トン・木造帆船)にて,芳賀奈七郎教諭が流網10反を使用し,1,000尾のサンマを漁獲したのを鏑矢とする。このサンマは2斗6升(約4.68リットル)樽に塩蔵したが,頗る肥えて260尾しか入らなかった。東京日本橋魚河岸「須賀甚」にて委託販売して,1尾4銭5厘・1樽11円70銭で取引された。出荷に要した樽・塩代,運賃,配達料,水揚料,手数料,通信費など諸経費合計2円65銭5厘を差し引いて,1樽につき9円75銭5厘の実益をあげた。従って,このサンマ1樽の出荷経費は,59尾分で賄われた事になり,頗る高額な御祝儀相場を呼んだものである。
 翌1911年には岩手県水試指導船岩手丸が,10月5日カツオ漁の終漁時にサンマの回遊を認め,10月12日〜11月5日に6回出漁し,流網を3回使用,1回目284尾,2回目カツオ5尾,3回目2,435尾を漁獲した。この3,000尾に近い漁獲は,当時としては驚異の事に属したという。流網がサンマの沖合捕獲具として適当である事を確かめた水試は,漁場開発調査を続け,漁民に対して小冊子の配布,講話などを行ったが,容易に着業しなかった。1916年(大正5)に漁具貸与の試験操業を募集,経営者が続出した。着業船は大槌・釜石・唐丹(とうに)等から20隻を箕えた。
 水試の担当者(芳賀奈七郎技師)は,漁況不振により,呱々の声をあげたばかりの漁業が,挫折するのを危惧したが,各船とも好漁を博した。同年の漁況は,常磐沖は全く不振で,三陸北部沖のみ豊漁だったので,各船はみな莫大な利益をあげ,「全沿岸に勃興の機運」を示した。その後の各年も豊漁が続いたが,1919年は特筆される。すなわち,岩手県沖に密集したサンマ群は,釜石・気仙沼沖まで南下したが,それ以南は僅少で,各県の漁況は不振を極めた。岩手のみ豊漁で,塩が不足・輸送困難の状態となった。こうして「海の幸は県下を潤し,漁民撃壌鼓腹の殷賑を極め」,重要漁業の一つとなったのである。
 ここで岩手県〜高知県沖のサンマ初漁状況をみると,1915年までは本州南岸の旋網による漁獲が,70%前後で多いが,1916年以降は千葉県以東の流網による漁獲が80%台と急増し,初漁は1カ月も早まった。かくて千葉県水試は,1916年に東北地方にサンマ流網の使用を見るに至り,東京魚市場における初荷の高値(御祝儀相場)を独占できなくなったので,漁場を北方へ拡張する必要を認め,ふさ丸を派遣し,鮎川・釜石を根拠に試験操業を開始した。
 1917年に千葉県水試は,ふさ丸の調査成果をもとに,県下の発動機付漁船の「東北団体出漁」を勧誘し,5隻が参加した。福島県水試も北方漁場への進出を計り,磐城丸(ケッチ型39トン50馬力)を三陸沖へ派遣し,試験操業に当たらせた。このように,1916年の岩手県漁業者のサンマ流網漁業の開始・大成功は以南各県漁業者の三陸沖への出漁を促し,企業体数・漁獲量ともに急増した。この年以降は,東北海区漁場の漁獲が,江戸時代から営まれてきた,千葉県以西のごく沿岸の漁獲を大きく凌駕した。福島県の漁業者が,サンマ流網漁業を起こして以来,10年が経過し,東北海区がサンマ主漁場となったのである。
 その後,陸揚量の増大に伴い,サンマは大衆魚として広く流通し,歌や俳句にも登場するようになる。しかし1925年から沿岸来遊群が減少し,初漁水域は毎年急速に沖合に移り,1930年には色丹島東南東110海里の沖合漁場が形成され,現在出漁している海域の沖合漁場開発は終わった。しかし,サンマ流網は自由操業だったので,早期出漁が競われ,小型魚が多獲されたため世論が起こり,1933年8月に農林省令第16号により解禁日の制度が設けられた。こうしてサンマ漁業は大臣の承認制となり,禁漁期間が設けられ,各漁船は9月21日に,一斉出漁するようになった。
 太平洋戦争後,千葉県水試を中心に,取締り規則の対象外だった火光利用棒受網漁業の試験が進み,1949年に全漁船が,集魚灯を用いる新漁法に転換した。漁業情勢の急変に伴い旧法は廃止され,7月に農林省令第70号が発布された。新法は総トン数10トン以上の漁船に適用され,集魚灯関係の事項,操業報告書提出義務が付された。複雑な漁業情勢に対処するため,手直し出来るのが特徴で,漁船トン数階層別解禁日の設定,早期化が計られた。200海里関係では報告内容は詳細となった。(今井章一氏の詳細な資料がある)。
 次に主な出来事を概述する。1949年のサンマ漁場は長期間,道東沖に停まり,南下が遅れ問題となったので,1950年には水研・水試・水産高校関係各船による「解禁日決定一斉調査を実施,解禁日決定会議(塩釜市)」にて,9月25日と決定した。漁期前一斉調査は,継続実施され,予報会議の基本資料となっている。1950年から漁況速報を発行し,1951年から主要漁港に於いて,サンマ資源陸上調査を実施,基礎資料を収集し,解析した。
 一方サンマ漁獲量は,新漁法と沿岸来遊群の増大により急増し,1958年前後には40万トン内外の未曾有の豊漁を記録,全国的に流通するようになった。1964年頃から沿岸来遊群が減少し,1969年は5万トンの最低となったが,その後また増加に転じた。その原因はサンマの回遊に不可欠な,親潮主勢力の離岸・接岸に見られる凡そ36年の周期性によるものと考えられ,サンマ資源変動の特性である。
 
あとがき
 今年は東北海区サンマ漁場が創始されて,100周年に当たるので,漁場開発に係わる漁業発祥以来の主な出来事を記した。情報は岩手県〜千葉5県の水試創設以来の記録,海洋調査要報,古老・漁業者の談話等によった。
 1950年以降は,東北区水研を窓口に,サンマ資源共同調査研究体制が確立され,全国調査打合せ,研究討論会,漁況予報会議など,毎年開催されている。それらの報告書・議事録,水研報告等に成果が公表されているので,簡単な記述にとどめた。それらに目を通していただければ幸いである。筆者は1980年まで30年間の窓口を担当し,関係各機関の方々,船舶乗組員,漁業関係者各位に大変お世話になった。ここに記して厚く御礼申し上げる。
(元東北区水産研究所海洋部長)