鉄が海洋生態系に与える影響


齊藤宏明

 北の海を思い浮かべるとき,“青く澄み切った”南の海とは違って,やや緑がかった色をイメージする人が多いと思います。これは,一般的にいえば,南の海に比べて北の海には窒素や燐といった栄養塩が多いため植物プランクトンが多く,海の色も植物プランクトンの持つ色素を反映するためです。別な言い方をすれば,北の海は植物の生い茂る豊かな森のようなもので,南の“澄み切った”海は草が僅かに生えている草原のようなもの,と言うことができます。しかし北の海であっても,北海道から太平洋を北北東へ進むと,最初は緑色がかった海が,東経150〜155度付近から青く変わっていきます。日本近海の豊かな海の森林は東へ行けば途切れるのです。この海域は栄養塩(nutrient)が豊富であるにもかかわらず,植物プランクトン量の指標となるクロロフィルが少ないため,High-Nutrient Low-Chlorophyll (HNLC)海域と呼ばれています。
 HNLC海域は,北太平洋亜寒帯域の他に,東部赤道太平洋および南極海にみられます。植物プランクトンが増えない理由に関しては様々な説が挙げられていましたが,1980年代後半に合衆国のJohn Martin博士が海水中の鉄を正確に測定して,このHNLC海域における植物プランクトンの生産が鉄欠乏によって制限されていることを明らかにしました。さらにMartin博士は,氷河期には鉄供給量が多く,海洋基礎生産に伴う二酸化炭素とり込み量も多かったと推定されることから,海洋への鉄供給量によって大気中の二酸化炭素濃度が変動し,氷河期―間氷期のサイクルにも影響すると考えました。これらHNLC成因や氷河期―間氷期サイクルに海洋への鉄供給量が影響するという考えは併せて”鉄仮説“と呼ばれます。
 この“鉄仮説”を受けて,鉄と生物生産に関する様々な観測・実験が行なわれるようになりました。この研究によって,鉄による成長律速は植物プランクトンの中でもやや大型(大きさは約10μm程度)の珪藻類で著しいこと,小型の植物プランクトンは小型の動物プランクトンに食べられるため増加できないこと等が明らかになりました。また,東部赤道太平洋と南極海では,100km2ほどの海域に鉄を添加する中規模現場実験が行なわれ,鉄制限がなくなれば,これらの海域では珪藻の中でも羽状目という種類が増殖し,海水中の二酸化炭素分圧が低下することが明らかになりました。
 このような実験が成功したため,地球温暖化の原因となる二酸化炭素を,HNLC海域に鉄を撒く事によって海に吸収させることが,温暖化対策技術として真剣に検討されるようになりました。特に二酸化炭素取引を視野に置いたヴェンチャー企業が,特許取得も含めて動き出し,実際に大規模鉄散布実験の計画を立てるようになりました。二酸化炭素増加による温暖化問題は,海面上昇や気候変動を引き起こす人類存続に関わる問題であり,我々はリスクと利益を天秤にかけながらその対策を考えなくてはなりません。海洋への鉄散布による二酸化炭素吸収も温暖化対策の一つのオプションとして考えることは当然のことでしょう。しかし,同時に鉄散布によって増えた植物プランクトンの行方(海底に沈降するか表層で分解するか)や,生態系や漁業への影響に関しては不明な点が多いのも現実であり,リスクもしくはネガティブな影響の可能性に関しても十分な研究がなされるべきです。このような背景の中,北太平洋の海洋科学に関する国際機関であるPICESにおいて,鉄添加実験諮問委員会が作られ,二酸化炭素吸収手法としての鉄散布手法の評価とその生態系への影響を明らかにするために,北太平洋亜寒帯のHNLC海域における鉄添加実験の実行が強く推奨されました。
 これらの動きを受け,水産総合研究センター北海道区水産研究所,東北区水産研究所,国立環境研究所,東京大学,電力中央研究所等の研究者が中心となって,環境省地球環境研究推進費による“鉄濃度調節”実験が行なわれました。この実験はSEEDS(Subarctic Pacific Iron Experiment for Ecosystem Dynamics Study)と名づけられ,二酸化炭素吸収技術としての海洋鉄濃度調節の有効性を明らかにすると共に,鉄濃度変化が海洋生態系や漁業生産に与える影響を明らかにすることを目的としています。
 SEEDSは,水産庁調査船開洋丸によって2001年7月に西部亜寒帯太平洋の北緯48度30分,東経165度の地点で行なわれました。およそ8km x 10kmの範囲に,350kgの鉄(硫酸鉄7水和物)を,海水に溶かした後に,調節海域を特定するためのトレーサーである6フッ化硫黄と混合して散布しました。この鉄の濃度は,調節海域を東京ドームとすれば,湯呑み茶碗軽く一杯ほどになります。これほどの微量ではありますが,2日目にはピコ真核植物プランクトン(2μm程の大きさ)の成長率が高まり,3日目には植物プランクトン全体の光合成能力が高まったことが確認され,鉄欠乏のストレスが緩和しました。植物プランクトン生物量の指標となるクロロフィル濃度は4日目頃から増え始め,9日目には,鉄濃度調節前のほぼ17倍の,17 mgm-3にまで増加しました(図1)。このころになると,植物プランクトンで海水が色づき,肉眼でも鉄濃度調節域とその外を区別することが可能となりました。文字通り青い海が豊かな緑の海に変わったのです。
 鉄濃度調節によってほとんどすべての植物プランクトン分類群が増加したことから,鉄欠乏が分類群に関係なく増殖を制限していたことが明らかです。興味深い点は,鉄濃度調節前にはごく低濃度(<1細胞/ml)でしか分布していなかった中心目珪藻のChaetoceros debilisが,調節後4日目から急激に増加し,6日目以降には珪藻の中で最も多くなり,実験後半には実験前の10000倍以上の濃度である10000細胞/mlにまで増加したことです(図2)。特に鉄濃度調節後4日目から7日目にかけての増殖速度は1.79 d-1,すなわち1日に6倍という,極めて高い値でした。今回観測された珪藻のブルームは,過去に南極海や赤道太平洋で行なわれた鉄濃度調節実験でのクロロフィル濃度をはるかに上回るものであり,しかもブルームピークに達する時間も9日間と早いのが特徴です。その理由には様々なことが考えられますが,一つの理由として,鉄濃度増加にすばやく反応できる,C. debilisが存在したことを挙げることができます。
 2002年7月には,同じく開洋丸によって,カナダと共同で東部亜寒帯太平洋において同様の鉄濃度調節実験を行ない(SERIES: Subarctic Ecosystem Response to Iron Enrichment Study),やはり鉄濃度調節が珪藻のブルームを引き起こすことを確認しました。いずれの実験でも栄養塩が消費され,海水中の二酸化炭素分圧が大きく低下しました。このことは,鉄濃度調節によって海洋の二酸化炭素吸収能力が増加したことを示しています。
 ただ,これらの実験によっても未解決の問題があります。最も重要なことは,珪藻のブルームによって固定された炭素の行方です。確かに珪藻が海水中の二酸化炭素を固定したため二酸化炭素分圧が低下しましたが,固定された炭素の大半は両実験共に海洋表層に分布していました。この粒状有機炭素が深層へ沈降すれば,数十から数千年は,炭素が海洋に貯蔵されることになりますし,風が吹けば大気と海洋の二酸化炭素分圧が平衡になるように大気から海洋へ二酸化炭素が取り込まれます。しかし,粒状有機炭素が海洋表層でバクテリアなどに分解されれば,海水中の二酸化炭素分圧は上昇してしまいます。この問題の解明のためには,より長期にわたる(鉄濃度調節から1ヶ月以上,計2ヶ月程度)観測が必要ですが,実際問題としてこれほど長期にわたる航海を行なうことは,船の運航や研究者の確保等の観点からも容易ではありません。
 研究者の確保という話がでましたので,少し話が横道にそれますが,鉄が海洋生態系や物質循環に与える影響を理解するためのこの研究の構成について説明したいと思います。生態系を構成する生物は非常に多く,その生物に影響を与える環境要因も様々です。鉄濃度調節の影響を理解するため,生態系とその動態の総合的な観測が求められました。表1はSEEDSにおける測定項目を示しています。これらの測定を行なうために積み込んだ荷物は,鉄溶解用3トン水槽2基,6フッ化硫黄溶解用タンク2基,標準ガス等のボンベ約60本,硫酸鉄(1袋25kgが110袋)等の大物を含めて,5トンコンテナ4台分と4トントラック6台分程になりました。積みこみ時には開洋丸が繋留されていた晴海埠頭は,その他のバンやワゴンも含めて積みこみ待ちの車両が並び,乗組員の方には“船が傾くよ”と冗談をいわれました。これらの観測・実験を行なうために開洋丸にはレグ毎に15名の研究者が乗船しましたが,乗船しなかった研究者も含めれば約30名の研究グループがこの航海を支えました。2002年の航海では,測定項目は更に増え,研究者グループは日本側とカナダ側合わせて80名程にまで膨れ上がっています。実のところを云えば,生態系の応答をより正確に理解するためにはこれでも研究者数が足りないと感じています。2001年の航海では,昼夜を通した観測が続き,多くの研究者が観測最終日にはこれ以上調査を続けるのが困難と感じるほど疲労困憊していました。より多くの研究者が乗船するということも,長期の観測を行なうためには必要不可欠の条件です。
 話を元に戻します。困難ではありますが,鉄濃度調節が海洋生態系や二酸化炭素収支にどのような影響を与えるかを理解するには,固定された炭素の行方を把握するに十分長期のかつ学術分野横断的な観測・実験が必要です。この,より長期の観測の必要性に関しては,我々の研究結果等を受けて(Tsuda et al., 2003),多くの研究者が興味を寄せており,合衆国ではNSFが2004年の調査に関する予算を認めました。現在,我々は2004年に合衆国と共同で,西部亜寒帯太平洋において再度鉄濃度調節実験を行なうことを計画しています。研究費の確保等まだ解決しなければならない問題は多いのですが,この実験が成功すれば生態系への影響評価を含めた鉄濃度調節による二酸化炭素吸収技術の評価が可能になると期待しています。また,一連の学術分野横断的な研究によって,海洋生態系や物質循環が鉄濃度の変化によって極めて大きな影響を受けることも明らかにすることができました。温暖化に伴う風力場の変化,中国における砂漠化の進行,シベリア,アラスカの森林火災,そして火山の噴火は海洋への鉄供給量やその季節変動に大きく影響します。これら自然の,または人為的な擾乱が生態系に与える短期的,長期的影響を理解するためにも,2004年の鉄濃度調節実験が重要だと考えています。
 最後になりますが,SEEDSを始めとする一連の研究の実行にあたっては開洋丸,水産庁漁場資源課,研究指導課,環境省研究調査室を始めとする多くの機関の方々の協力がありました。この場をお借りして御礼申し上げます。

引用文献
Tsuda, A., et al. (2003) A mesoscale iron enrichment in the western subarctic Pacific induces large centric diatom bloom. Science, 300: 958-961.
(混合域海洋環境部 生物環境研究室)

Horoaki Saito