「底魚資源の定量評価」にむけて

稲田伊史


 昭和61年10月、海洋水産資源開発センターに13年余り勤務していた私は、水産庁の特別採用により東北水研八戸支所第1研究室長として、夜行列車で赴任した。東北本線八戸駅に早朝降り立った私は、閑散とした駅前の静寂さに一瞬とまどった記憶があるが、以来それから約10年の間、八戸支所に勤務することになる。
 八戸での最重要な仕事は「200カイリ水域内漁業資源調査」への対応で、第1研究室の橋本良平さん、小谷地栄さん、石戸芳男さん、それにパートの速水悦子さんとともに、スケトウダラ、マダラ、キチジ・メヌケ類、イトヒキダラの資源評価を行うことであった。その当時、不十分ながら銘柄別漁獲尾数のデータがあるのはスケトウダラのみであり、他の魚種についてはCPUEのトレンドで資源診断を行っていた。開発センターにいた頃は対外的な仕事で資源評価を求められる場合が多く、私もニュージーランドやアルゼンチン等で深海丸により底魚類の資源評価の仕事に携わり、東大の松宮義晴さんや遠洋水研の畑中寛さんといっしょに現場での汗を流す仕事をさせてもらった。その経験から東北でも底魚類について年齢別漁獲尾数データを収集することはとても難しいと感じ、調査船による「面積ー密度法」により現存量調査の導入を何とか図れないかと考えるようになった。
 そうした所、昭和62年秋には使用を申請していた遠洋水研の「俊鷹丸」の利用が許可となり、同年の秋には宮城県沖でテスト調査を開始した。俊鷹丸はスターントロール型であったが長年トロール調査を行っていなかっため、北転船の船頭であった塩竃在住の丸山豊松さんに指導を仰ぎながら新しいトロール網を仕立てオッターボードに改良を加えたもののトロールウィンチの性能が悪く、当時の吉田伸夫船長が苦労されたようであった。このウィンチについては、その後を継がれた下島甫船長が数年かけて予算要求をされ、実際に更新された時はもう「若鷹丸」の代船の話しが始まり、その新しいウィンチを本格的に使用する機会を失したのは皮肉な結果であった。しかし、この調査結果の概要を遠洋水研ニュース(平成5年10月)に投稿したところ、日本で初めて底魚資源評価のためのクイックアセスメント調査として評価されたのは幸甚であった。なお、平成元年から5年まで当時北大の院生であった服部 努(現東北水研)、山村織夫(現北水研)両氏が各々テーマをもって俊鷹丸に乗船し大いに助けられるとともに、両氏のその後の活躍に心躍る思いある。また、この間(昭和62年)人工礁調査ではたびたび岩手水試に伺い共同調査を行っていたが、その縁もあり昭和63年から現八戸支所の北川大二室長と同じ水研で働くことが可能となったことは私には幸せなことであった。
 続いて昭和63年春に使用が可能となった兵庫県香住高校の練習船「但州丸」により、当時トロール調査が可能であった宮城県から福島県沖で系統抽出法により定点を決めてトロール調査を行った。当時の但州丸の船長は北洋の北転船に乗っておられた丹生孝道船長で、トロールのベテランであり大いに助けられた(平成4年まで)が、調査時期が春であるため、私としてはタラ類の現存量の推定とその資源動向の予測には0歳魚の加入が終わる秋に調査を行うことが不可欠と痛感していた。そこで加入量を推定するため沿岸域を調査できる東北水研の「わかたか丸」をかけ廻し漁法からスターントロール漁法に転換することが資源の定量的評価には必要と考え、平成2年から佐々木静夫船長の時代に、大須賀ボースン始め乗組員一同や網メーカーの協力を得て初めてトロール操業による調査が可能となった。しかし、青森・岩手沖では民間船によるトロール操業は許可されておらず、たとえ調査のためといえども、その実施については薄氷を踏む思いであった。
 さらに、CPUEのトレンドで資源状態をモニタリングしていたが、漁法が違えばその比較ができないという壁を乗り越えるためには、どうしても漁法が異なる漁船の間で漁獲性能の標準化が必要なため、昭和63年から3ヶ年かけて青森県のかけ廻し漁船(昭和63年)、宮城県のトロール漁船(平成元年)、岩手県の2そう曳き漁船(平成元年)の3漁法の漁獲性能の比較試験を「わかたか丸」をコントロールとしてサイドバイサイドで洋上試験を行った。作業量は大変であったが、当時はまだ私も馬力があり何とか踏ん張って結果を出したが、以来この種の調査の必要性は研究者の間で認識はされていても、その作業量の前に二の足を踏まれているようだ。
 平成4年夏には「わかたか丸」の代船建造が補正予算で認められ、急遽委員会が設置された。当時「わかたか丸」は八戸港を定繋港とし、実質上八戸支所で年間の大部分の航海を行っていたことから、当時の新進気鋭の長谷川峯清船長とは連日連夜、喧々諤々の論議で船型をスターントロール二層甲板で2,000mまでの深海トロールを可能とすることで意見が一致した。新「若鷹丸」を目にしたのは日水研へ赴任するわずか1時間前の平成6年の春のある日であった。その間「我が国周辺漁業資源調査」への予算要求への準備等、まさに目の廻る1時代であったが、今もその状況は続いている。小人はなかなか閑居させてもらえない。
(元 八戸支所  現 北海道区水産研究所)

Tadashi Inada

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