沿岸漁業研究所は、カリマンタン島(ボルネオ島)の東に位置するスラベシ島(旧セレベス島)の最大都市、ウジュンパンダン(旧マカッサル)から40kmほど離れたマロスという小さな農村にあります。研究所は田んぼに囲まれており海岸までは10kmほどあるために海の魚を研究するには立地条件がよいとは必ずしも言えないのですが、付属施設として広大な汽水池や海中生け簀があり、魚の観察には便利でした。また、この周辺は気象も複雑で、スラベシ島の南部では、東海岸側では雨期のピークが5月から6月であるのに対し、西海岸側では12月から1月になっています。そこで、私が長期出張していた間の研究課題は、外部環境が成熟に及ぼす影響を調べるため雨期の時期が異なる東海岸側と西海岸側で魚の産卵期や成長を比較することと、熱帯産魚類の年齢査定を耳石日周輪で行うこと、の2点を中心に進めることに落ち着きました。研究対象は、インドネシアのみならず東南アジア全体で重要産業種となっていること、そしてほとんど周年標本を採集できそうなことからグルクマ(サバ科)の一種Rastrelliger brachysomaを選びました。(写真1)とはいうものの標本の採集が一番苦労しました。このあたりの小型浮魚を対象とした漁業はランプを使った旋網または敷き網が主体となっているのですが、旋網の船は船が小さい割に乗組員が多いため乗せてもらえず、敷き網の船にせてもらって標本を集めることにしました。この敷き網は現地でバガンと呼ばれ、船の両側には木や竹でできた枠が船の長さの半分ほど張り出しており、真上から見ると"中"または"日"の字の様に見えます。(写真2)この中棒に当たるところが船で、外枠と同じ大きさの網を沈め、ライトをつけて魚が集まってくるのを待ち、頃合いを見計らってライトを外側から少しづつ消してゆき、網の中心付近に魚を誘導し、少しづつ網を揚げてゆきます。最後に最後のランプの光を赤く切り替え、網を巻き上げて一網打尽となるわけです。ところがこの方法で漁獲されるのは、非常に小さい種類や幼魚ばかりで、産卵期を調べられるような成魚はほとんど捕れません。結局、標本は魚市場で買うことになってしまいました。
こうして、1996年3月から1997年7月まで標本を集め、Rastrelliger brachysomaの生殖腺重量や卵巣の組織標本を作って成熟状態を観察しましたが、明瞭な産卵期は見られませんでした。ある月に集めた標本はほとんど産卵後の個体であったと思うと、次の月には産卵直前の個体が大部分を占めたりしました。ただ、各月に採集された標本は成熟状態がほぼ一致していたことから、生殖腺の発達が同じ段階の個体が集まって群れをつくっていると考えられました。また、雨期、乾期が魚の成熟に与える影響はそれほど大きくないためか、両地域間での産卵期の差は明瞭ではありませんでした。
一方、耳石日周輪による日齢査定は、魚種によってはかなり正確にできることがわかりました。特にトウゴロウイワシの一種のヤクシマイワシやテンジクダイ科のホソスジマンジュウイシモチでは、光学顕微鏡でも十分鮮明に日周輪が数えることができました。これら耳石日周輪による日齢査定はインドネシアの研究者も非常に興味を持っており、他の研究所の研究者からも方法について多くの質問を受けました。今回訪問したときも、私のカウンターパートだった研究者が耳石の研究を続けており、帰国した後に研究がとぎれてしまうことを心配していた私は非常にうれしかったです。
私のカウンターパートはもともとアオリイカの研究がテーマの一つでしたが、実験場の生け簀でアオリイカを簡単に産卵させることができること、成熟体長が時期によって一定していないことから、成熟と成長の関係について、耳石日周輪を使って調べています。今回訪問したときにもアオリイカの日齢査定の研究を続けていましたが、彼は一年間研究企画の仕事も受け持つことになり、研究のマネージメントの仕事が増えなかなか研究に使える時間がとれないといっていました。
インドネシアの研究所にとって今一番深刻な問題は、通貨の価値下落に伴う予算の縮小と研究に使う機材や薬品類の高騰のようでした。この国では、研究に使うほとんどすべてのものを輸入に頼っているため、為替レートの違いがダイレクトに価格に反映します。インドネシアの通貨ルピアの価値は東南アジアの経済危機の前に比べて一時期5分の1まで下がったので、その大変さは容易に想像がつきます。幸いなことに、現在インドネシアの通貨価値は徐々にあがり始めていますが、それでも私が最初に訪問したときの半分以下です。これから年末に予定されている大統領選挙があり、再びインドネシアの情勢が大きく変わるかもしれませんが、一刻も早く政治的経済的に安定し、落ち着いて研究できる日が戻ることを祈らずにいられませんでした。
最後になりましたが、忙しい中私にインドネシアに行く機会を作ってくださった東北区水産研究所および国際農林水産業研究センターの方々に深く感謝いたします。