ノルウェー留学記〜それぞれの長期在外

栗田 豊


 1998年6月15日〜1999年6月14日まで、科学技術庁長期在外研究員としてノルウェー王国ベルゲン市にある、ノルウェー漁業省海洋研究所(Institute of Marine Research; Havforskningsinstituttet)で研究をしてきました。
1. 一編の論文
 "maternal effect"と言う言葉を耳にしたことがあるでしょうか?魚類の個体群動態に初期生残が大きな役割を果たしているのはもはや常識となっていますが、産卵親魚の特性が初期生残に及ぼす影響については意外と研究されていませんでした。"maternal effect"とは母親の特性が仔稚魚の生残に及ぼす影響という意味で、ここ10年くらい知識が蓄積されつつあります(Trippel et al. 1997)。私の関心は、産卵親魚の栄養状態によって繁殖特性(産卵場、産卵時期、産卵数、卵質)がどのように変化するのか、その結果どのような影響を初期生残に及ぼすのかという点にありました。
 主要数誌に掲載されている論文を読み漁る中で、目に留まった一編の論文が、"Fecundity, atresia, and egg size of capative Atlantic cod (Gadus morhua,) in relation to proximate body composition" (O. Kjesbu et al. 1991, Can. J. Fish. Aquat. Sci.)でした。この論文は、いくつかの餌条件で飼育した栄養状態の異なるタラの産卵数、吸収卵の数、卵サイズの違いを調べた論文で、栄養状態として筋肉、肝臓、卵巣の一般成分(脂質、タンパク質含量)を用いた点で特徴的でした。O. Kjesbu博士の他の論文を読むうちに、彼が卵母細胞形成に関わる生理学的な研究もしていることが判り、これからの資源生物学に生理学的なアプローチが必要であると常々考えていた私の頭の中に、彼の名前は強く刻まれていきました。長期在外研究員として1年間の受け入れをO. Kjesbu博士に打診するまで全く面識が無く、ノルウェーという国の知識も全くありませんでしたが、彼の論文はそれらの不安を補ってあまりあるほど強い印象を与えました。
2. 幸運と不運
 ノルウェーに到着して、早速O. Kjesbu博士の研究グループと1年間の研究に関して会合を持ちました。研究内容はニシンの栄養状態と卵母細胞の成長速度の関係を明らかにするといった内容で、大筋についてはEメイルのやりとりを通して事前に合意していました。しかしその時提示された彼の研究案は、私に言わせれば卒論に毛が生えた程度の研究で、自分に対する評価を思い知らされ少なからず残念に思いました。この会合では研究の歴史や意義(つまり論文の緒言に当たる部分)について説明してもらって、内容についてはおいおい修正を加えるというような結論になりました。その後、紆余曲折があって、最終的には野外で定期的に採集した個体を用いて、卵母細胞の成長、よう卵数(fecundity)および吸収卵(atresia)の割合の変化を調べる研究になりました。
 今回の留学中は、日本での仕事を持ち込まないでほしいという受け入れ先からの要望がありました。日本から給料をもらっているのだから何をやろうと構わないのではないか、と言う意見もあるでしょうが、ノルウェーでの仕事に専念することで得たメリットもあります。一番大きなメリットは、ノルウェーでの仕事に関して全面的なサポートを受けられたことでしょう。また、日本とノルウェーの仕事を並行することでどっちつかずになる危険を避けられたことも挙げられます。日本での仕事をしないように釘を刺されたことは、かえって幸運だったかも知れないと、今にして思います。その他、小さなトラブルはいくつかあったような気がしますが、最終的にはお互いに理解し合えるようになり、いい関係が築けたと確信しています。一番の理由は、私の研究に対する姿勢を評価してもらえたからだと思っています。
3. ニシンの栄養状態と産卵数の関係
 ノルウェー春産卵ニシン(Norwegian spring spawning herring, Clupea harengus)は、3、4月にノルウェー沿岸で産卵し、その後9月まで沖合を北上しながら摂餌を続けます。10月には越冬海域に入り、1月中旬から南の産卵場へ向けて産卵回遊を開始します。越冬海域に入る10月から産卵期の3、4月までは、ほとんど餌をとりません。従って、10月の栄養状態から産卵時の栄養状態を予測できます。成熟周期を網羅するように、7、10、11、1、2月に採集した雌をそれぞれの月から40個体程度選択し、fecundity、atresiaの割合、卵母細胞径、筋肉と卵巣の脂肪含量及び水分含量を測定しました。その結果、吸収卵によるfecundityの調整は、摂餌がほぼ終了した9月から12月に起こり、最終的には魚体のタンパク質含量(脂肪含量および水分含量より推定)に比例した産卵数になること、7月(卵黄蓄積開始)から2月(産卵直前)までにfecundityは約60%も減少することが判りました(Kurita et al. 1999)。産卵回遊の距離、すなわち産卵場の位置は、魚体の脂肪含量の影響を受ける可能性が指摘されており(Slotte 1999)、一言で栄養状態と言っても、脂肪とタンパク質で繁殖特性に及ぼす影響の仕方が異なることが考えられます。現在私が研究を行っているサンマは長い産卵期を持ち、産卵中も摂餌を行う魚です。このような種では、産卵中の摂餌量が産卵期の長さや1回あたりの産卵数に効いてくることが予想されます。サンマはニシンほど研究しやすい材料ではありませんが、ニシンで行ったのと類似の手法で栄養状態と繁殖特性の関係を明らかにしたいと思っています。
4. Havforskningsinstituttet
 hav = marine, forsknings = research, instituttet = institute。Institute of Marine Researchはノルウェー漁業省の研究所で、日本の水産研究所に相当します。資源部、漁業部、海洋環境部、増殖部、事務部、臨海実験施設からなり、研究者150名、技術者180名、事務員70名が在籍しています。また、船を5隻持っており、船関係の職員は110名です。研究所の組織運営で強く印象に残ったのは、日本の資源管理部に相当する組織が、資源部と漁業部に分かれており、規模、職員数ともに充実していること、船の乗組員が2交代制になっており、それぞれの船が300日程度稼働していること、技術者が多いことです。研究者のレベルは高いと思いましたが、とてつもなく頭が切れる人にはお目にかかりませんでした。
 研究者はそれぞれがいくつかのプロジェクト研究を持っており、1年間に各プロジェクト研究および経常研究に費やす時間が、1時間単位で決められていました。個々のプロジェクト研究は13の課題に大別され、課題内で綿密な打ち合わせを行っています。これらのうち、資源や海洋環境のモニタリングに力を入れていることが強く印象に残りました。
5. ノルウェーから学ぶ
 1年間の海外生活で得ることは、研究以外にもたくさんのことがあります。一番強く印象に残っているのは、日本人には日本語と日本食が必要であることです。特に母国語(日本語)でコミュニケーションをとることが、精神衛生上にいかに重要であるか、逆につたない外国語で意志の疎通を図ることがいかにストレスの溜まることであるか、痛感しました。また、彼らのことを“個人主義者”と否定的なニュアンスで呼ぶ人がいますが、彼らは他人の“個人主義”も尊重します。決して自分の権利だけを主張する“利己主義”とは違います。彼らが生活を大切にする姿勢にも感じるものがありました。私にとっては理想郷のように思えたノルウェーでしたが、ノルウェー人に言わせると彼らも様々な問題を抱えているとのことです。たったの1年の、しかもお客さんでしかない滞在で、ノルウェーのことを語るのは所詮無理があることでしょう。でも、日本に比べれば、人と人とが向き合っていることは確かでしょう。日本人が学ぶべきことがノルウェーにはたくさんあると思います。
6. 雨の町、ベルゲン
 理屈っぽい話になってきたので、ここら辺でベルゲンの香りをお届けしましょう。ベルゲンは別名“雨の町”と呼ばれているほど、雨の多い町です。ガイドブックには1年の3分の2は雨であると書いてありましたが、3分の2では足りないくらい雨ばかり降っていました。日本(太平洋側)では、2、3日雨が続けばその後必ず晴れますが、ベルゲンは2週間ずっと雨ということも珍しくありません。雨の日に、そのうち晴れることを期待できない重苦しさを想像してみて下さい。特に2月の暗い時期に、雨が2週間以上続いたときには、さすがに気が狂いそうになりました。町ゆく人の表情も暗く、ベルゲン人といえども暗く雨ばかりの冬はこたえているようでした。4月5月になると、晴れの日が増えてきて、町にはたくさんの種類の花が咲き乱れます。それに呼応するかのように人々の表情にも輝きが戻り、衣類を1枚2枚と脱ぎ捨てた女性の肌が、本当に眩しく見えます。北欧では、春は人間にとってもまさにブルーミングの季節なんだと感じ入りました。
 ベルゲンで一番印象に残っている景色は、濃く澄んだ青空です。空に塵や水蒸気が少ないせいでしょうか、天気さえ良ければいつも“台風一過”のような青空になります。家の壁は青、赤、黄色など原色のペンキを塗っている家が多く、日本ならけばけばしく映るような色ですが、抜けるような青空の色によく調和していて、美しくさえ感じます。また日没時には町に隣接した山の斜面がオレンジ色に染まり、町が黄金色に輝きます。私はこの時間帯が大好きで、1日の終わりの最後の輝きを、幾度となく、頭の中に吸い込むように見とれていました。ノルウェーで過ごした日々は、私にとって宝ものです。
7. 解題
 日本で自分が置かれている状況、在外研究で行う研究の内容や理解度、受け入れ先との関係などによって、滞在地での研究や生活のあり方は変わってくると思います。欲を言えばきりがありませんが、自分なりに充実した1年を過ごせたことに満足しています。とはいえ、決してスマートな研究生活を送ったわけではありません。私が満足しているのは結果ではなく、むしろ過程だったのではないかとさえ思います。拙文が、これから長期在外研究を考える人たちにとって、等身大の在外研究をイメージし、それぞれの在外研究を行う一助になれば幸いです。
8. 謝辞
 超多忙な研究室にあって、私の長期在外研究を許可し仕事を肩代わりしていただいた、資源管理部浮魚資源第一研究室の手島和之室長、村岡大祐研究員(ともに当時)、八戸支所資源生態研究室の上野康弘室長、巣山 哲研究員、資源評価研究室の北川大二室長に心から感謝いたします。また、今回の留学の機会を与えていただいた科学技術庁、農林水産技術会議、水産庁研究指導課の方々、東北水研の方々に御礼申し上げます。
9. 文献
Trippel, E., O. Kjesbu, and P. Solemdal (1997) Effects of adult age and size structure on reproductive output in marine fishes, in Early Life History and Recruitment in Fish Populations (eds. R. Chambers and E. Trippel), Chapman & Hall, London, pp. 32-62.
Kjesbu, O., J. Klungsoeyr, H. Kryvi, P. Witthames, and M. Greer Walker(1991) Fecundity, atresia and egg size of captive Atlantic cod (Gadus morhua) in relation to proximate body composition. Can. J. Fish. Aquat. Sci., 48, 2333 - 2343.
Kurita, Y., A. Thorsen, M. Fonn, A. Svaldal, and O. Kjesbu (1999) Oocyte growth and fecundity regulation of Atlantic herring (Clupea harengus) in relation to declining body reserves during overwintering. Proceedings of 6th Internat. Symp. Repro. Physiol. Fish, in press.
Slotte, A. (1999) Differential utilization of energy during wintering and spawning migration in Norwegian spring-spawning herring. J. Fish Biol. 54, 338 - 355.
(八戸支所 資源生態研究室)

Yutaka Kurita

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