「山神社」の移転について

黒田一紀



 平成7年10月31日に、八戸支所と隣組である青森県漁業修練所に隣接している西宮神社の西村昇宮司(現在、八戸市統計協会会長)の来訪があり、支所の敷地内にある「山神社」石碑を氏子の要請によって西宮神社へ移動したい旨の相談を受けた。
 支所職員の話によると、石碑は支所の車庫付近の草むらに埋れているが、毎年時期になると土地の方が数人で来訪され、参拝されるとのことであった。実際に夏草を踏み分けて調べてみると、長さ70〜80cmの石碑は半分近く埋没していたが、風雪に耐えて「山神社」の字が浮き出ていた。
 申し出を快諾したところ、11月13日の大安の日を選んで無事に移動が挙行され、支所から50m余離れた西宮神社の境内の一角に、有名な「鯨石」とともに安置されている。
 この石碑が建立された由来を簡単に紹介しましょう。
 現在八戸港と呼ばれる港は鮫浦港を発祥としている。その鮫浦港は、寛文4年(1664)に南部藩が八戸に城を築いて以来明治年間に至る約250年間にわたり、江戸や上方(大阪)からの回船(通五郎船)の寄港地として、三陸沖の好漁場の中央に位置する漁港として、そして三陸から尻屋崎に至る航路の避難港として重要な役割を果たしてきた。
 大正に入って、日本では遠洋漁業の発達や水産業の振興に対応するために漁港建設の機運が高まり、八戸港は日本で最初の漁港として築港することになった。そして、大正8〜14年に鮫浦漁港の修築事業が計画され、防波堤の築造と埋立地の造成工事が実施された。その後、この事業は昭和7年まで延長して施行されて漁港が完成するとともに、引き続き昭和7〜14年には商業港としての修築整備が行われて、昭和14年3月29日に開港した。
 最初の大正8〜14年における鮫浦漁港の修築に際して、築港や防波堤の原材石として蕪島(ウミネコ天然記念物として有名)付近から東の海岸地帯の岩礁を爆破して利用することになった。当時、ダイナマイトを仕かけて大規模な発破作業が行われたが、技術が未熟であったために作業中に多数の怪我人が発生した。そこで、作業の安全と多くの人の労苦に報いるために、鮫町の大久保村の坑夫一同によって「山神社」が建立された。
 石碑は「山神社」の表書きがあり、向かって左側に「大久保村坑夫一同」、右側に「大正十四年五月十二日」と刻まれており、縦70〜80cm、横幅30〜40cm、奥行20cm位の素朴な石であるが、70年の風雪に耐えて多くの地元の方々の祈りが込められている。
(八戸支所長)

Kazuki Kuroda

前ページへ