ミクロネシアからのカツオだより

田邉智唯


 「カツオだ!!」1992年10月23日午後10時35分、北緯6度5分、東経138度59分の太平洋上で、筆者は思わず夜空に向かって大声で叫んだ。船は折りからの台風の影響を受けて、上下左右に不規則なゆれを繰り返している。しかし、筆者の頭の中は今まさに手にしている体長約12cmのカツオのことでいっぱいになってしまった。丹生船長はじめ但州丸の乗組員、さらに実習中の生徒までもがその声を聞いて駆け寄った。改めて筆者は周囲のみんなに告げた。「これです。これが今回の目的のカツオです。」それまで重苦しかった船上の雰囲気が、このわずか12cmのカツオにより一気に和らいだ感さえあった。そして船長さんは笑顔で答えてくれた。「とうとうやりましたね。」
 これは1992年10月13日から12月3日にかけて実施した「平成4年度太平洋西部熱帯域におけるカツオ稚・幼魚の分布調査」での1コマである。稚・幼魚期におけるカツオの生態解明を目的として本年度より始まった今回の調査では、300尾余りのカツオを採集するとともに、長期航海ということもあって悲喜こもごも幾多のエピソ−ドが生まれた。調査の成果等詳細については筆を改めることとして、ここではもっとも印象深かった出来事を幾つか紹介したい。

《最大の難関》

 本調査はこれまでほとんど例のないカツオ稚・幼魚の採集を主目的としたため、採集方法等について多くの困難が予想された。しかし、実際に筆者らの前に立ちはだかったのはカツオ自身ではなく、船酔でも、ミクロネシア200カイリ入域問題でもなかった。それはいつ発生するか全く予想することができない台風だった。事実、今回の調査は台風に始まり台風に終ったといっても決して過言ではない。航海中人工衛星から送られてくる天気図に台風が姿を見せない日はまれで、船橋では常に台風の動きに神経をとがらせながら、調査内容を組み立てていかなければならなかった。
 最初に台風の影響を受けたのは10月19日のことだった。13日に塩釜を出港した調査船但州丸は、19日9時にグアム島アプラ港に入港、ここでミクロネシア連邦政府のオブザ−バ−を迎えた後同日13時に出港、調査水域に向かうはずだった。ところが……。
 現地時間19日8時20分(日本時間7時20分)、但州丸はアプラ港沖パイロットステ−ションに到着。すぐに無線で入港許可を要請する。「Port Control, Port Control, This is Tansyu-maru.....」丹生船長の明快な英語が響く。筆者はいよいよ調査が始まるという緊張感をもって、その一言一言に耳を傾けていた。何度目かの呼掛けの後、管制官より応答があった。
「Tansyu-maru, This is Port Control.... We can not allow entering to the port because the typhoon coming next evening, so you must go away right now....」
つまり、台風接近中のため入港許可できないから直ちに立ち去れとの退去命令である。その時、筆者はじめ誰もが耳を疑った。全く予想外の出来事に筆者は事態が飲み込めず、再度管制官に向かって入港許可を求めた。しかし、無情にも管制官が発する言葉は先ほどと同じである。船橋内は一種の失望感で満たされ、なすすべもなかった。
 それからどれくらい時が過ぎただろうか。突然、日本語で但州丸に応答を求める声が響きわたった。その声の主は、事態を知ってグアムの代理店ATOKIN KROLLに駆けつけてくれたデビット石丸氏である。同氏はグアムで代理店を経営されており、但州丸とは旧知の仲で、今の状況を分かりやすく説明してくれた。
 そのATOKIN KROLLオフィス内では、ミクロネシア連邦政府と連絡をとっている最中で、無線を通じて慌ただしい雰囲気が伝わってきていた。
 しばらくして石丸氏が相手国からの声明を伝えてくれた。それはオブザ−バ−をポナペ島またはトラック島まで迎えにくることが可能かどうかという打診である。すぐに船橋内で協議した結果、調査航路を変更する必要がでてくるがトラック島で乗せることは可能であるという結論に達したため、その旨を代理店を通じて相手国に伝えた。そして但州丸は一路トラック島へ向けて航行を開始した。筆者はトラック島の海図を眺めながら島周辺に発達した美しい珊瑚礁に思いを巡らせていた。
 ところがトラック島へ向けてまだいくらも進まないうちに、その思いは打ち消されてしまった。石丸氏が再びミクロネシア政府からの声明を伝えてくれ、それによると今回の調査でのオブザーバーの乗船をキャンセルするが、調査はそのまま開始してもよいというのである。
 かくして今回の調査はなんとか実施できることとなり、最初の調査ラインである東経137度、北緯10度に向かった。第1次調査は10月21日に開始し11月5日に終了したが、この間も次々に発生する台風により洋上のうねりはおさまらず、中層トロールの曳網が不可能になった日さえあった。さらに台風避難のため調査航路の変更も幾度となく行わざるを得なかったが、11月6日にはグアムに補給のため寄港し、異国での休暇を楽しむことができた。
 グアムでの停泊を終えた但州丸は、11月9日夕方ミクロネシア連邦政府の要請によりオブザーバーを乗船させ、10日朝出港、翌11日第2次調査を開始した。調査開始後しばらくは天候に恵まれ、グアムで休養したことも手伝って調査は順調に進んだ。
 ところが船内に本調査もそろそろ終えることができそうだという安堵感が流れはじめた矢先、再び台風が発生してしまった。この台風30号、通称GAY(名前からして不気味である)は帰りの航海にまで但州丸につきまとうことになるのであるが、このとき筆者らが最も心配したのは、調査終了後にオブザーバー氏を下船させるため再びグアムに入港することが不可能になる恐れが生じたことである。その予想は2日後に的中することになるのであるが、これが結果的には災い転じて福となってくれた。つまり、グアムへ向かうことが困難となったため、相手国政府機関のあるポナペ島でオブザーバー氏を下船させ、短い時間ではあったがミクロネシアマリタイムオーソリティーの研究者との交流を図ることができたのである。このときばかりはさすがに台風に感謝したい気持ちになってしまった。

《出会い》

 11月9日17時、グアム停泊中の但州丸に1人のミクロネシア人が乗り込んできた。オブザーバーのエステファン・サンチャゴ氏(30歳)である。同氏とは翌10日のグアム出港から24日のポナペ入港までの間、寝食を共にすることとなった。この瞬間から調査員兼外交官(!?)となった筆者は、つたない英語でなんとか挨拶を交わし、今回の調査及び船内での生活について簡単に説明した。
 さてそのサンチャゴ氏(後に船内ではみんなからサンちゃんの愛称で親しまれるようになる)であるが、グアム出港後2、3日のうちに船内生活にもすっかり慣れ、その実力をいかんなく発揮し始めた。というのも、もともと体つきからして体重100kgはあろうかと思われるほどの大男のため、いるだけで充分な存在感があるのであるが、加えて南国らしい陽気さと人懐っこい性格のため、緊張の連続であった今回の調査の中に心地よいミクロネシアの風を吹き込んでくれたのである。
 11月13日朝、但州丸は北緯5度0分、東経147度0分に係留された海洋観測用と思われるブイを発見、周辺に濃密な魚探反応を認めたため船を止め手釣りでの操業を始めた。まもなく40〜50cmのメジを主体にカツオ、シイラ等が甲板上で躍る光景がみられるようになっていた。
 そのときである。サンチャゴ氏が突然「サシミ!」と叫びながらいま釣り上げられたばかりのメジを1尾つかんで、ナイフ片手に調理を始めてしまった。手際よくメジの“サシミ”を作り上げた彼は、さっそくそれを賞味しながら「オイシイ」を連発した。彼の余りの唐突さに誰もがただ唖然として眺めているだけであった。そしてその夜の食事には特別に刺身が添えられることとなり、食卓は大いに盛り上がった。その後もサンチャゴ氏は皆に愛敬を振りまき続けたため(本人に自覚があったかどうかは不明であるが)、船内での話題に事欠くことはなかった。
 そんな陽気なサンチャゴ氏も、筆者らがミクロネシア連邦の将来について話を向けた時には、その大きな目を輝かせながら自分の夢を熱っぽく語ってくれた。ミクロネシア連邦は小さな島国でこれといった産業もないため国際社会での地位も低い、しかし自分はこの国の水産業の発展に寄与したい、と。そしてそのためには日本から多くのことを学びたいとも言った。これに対し、水産という世界に首をつっこんでまだ間もない筆者には有益な助言などできるはずもなく、ただ「あなたの国にはこんなに美しい海と豊富な水産資源があるではないか」と褒めるのが精いっぱいであった。
 そんなサンチャゴ氏との楽しかった交流の時もまたたく間に過ぎ、11月22日夜には中層トロールによる最後の操業を終え、翌23日には全調査日程を終了した。さきにも述べたようにサンチャゴ氏は調査終了後グアムで下船することになっていたが、実際は台風のためポナペに緊急入港し、ここで但州丸を去っていった。ミクロネシアの透き通った海をそのまま連想させるようなすがすがしさを残して。

《グアムタイム、ポナペタイム、ジャパンタイム》

 この表題をみて皆さんは何を連想されるだろうか。多くの方はそれぞれの地域における標準時間の違い、すなわち“時差”をまず頭に描かれるのではないだろうか。実際のところ日本時間に対してグアムはプラス1時間、ポナペはプラス2時間の時差がある。しかしここで紹介するのは時計の上での時差ではなく、それぞれの地域の人々がもつ感覚的な時間差である。
 今回の航海では11月6日から同10日にかけてグアムに、11月24日にポナペに寄港した。調査の遂行上、上陸できる時間は限られており、特にポナペでは緊急入港ということもあってほんの数時間島内を散策しただけであったが、それでも遠い異国の人々の生活に触れることができた。その中で筆者はそれぞれの地域の人の時間に対する感覚というものについて、特に興味を覚えた。
 日本の社会生活において、ある決められた時刻があるとする。それは仕事上の会議の開会時間としてもよいし、友人同士の待ち合わせ時間としてもよい。これらの場面では、一般に「集合時間」が予め定められており、当事者はたいていその時刻までには集まる。不幸にも30分も遅れて来ようものなら、その人は遅刻したことになり罰が悪い、というのが一般的な光景ではないだろうか。
 ところがグアムやポナペの人々の感覚は、いささかこれとは異なっていると思われた。例えばグアムの代理店の面々。彼らは翌朝10時に但州丸にくるという。しかし、当日予定時刻を1時間過ぎても船には何の連絡もこない。筆者はじめ船内では何か不測の事態が生じたのではないかと心配している。皆が昼食を食べ終えた12時頃、彼らは悠然とやってきてにこやかに「Hellow!」と言った。グアム在住の日系人デビット石丸氏によれば、こういう時間感覚を“グアムタイム”と呼ぶのだそうだ。日本人の多くはこのグアムタイムに戸惑い慣れるまで一苦労するらしいが、グアムではこの様な出来事は日常茶飯事であるという。
 石丸氏に言われて街中を見回すと、確かにここには筆者が日頃当り前のごとく接している慌ただしさが感じられなかった。それどころか行きかう人、車の流れ、そして散歩する犬までもが筆者の感覚からみれば極めてゆったりとしたリズムで動いていた。このようなグアムタイムの流れる街に戸惑いを感じる場面も多くあったが、それが強い日差しと高い気温の中ではごく自然なリズムではないかとさえ思えて遠ざかるグアム島を眺めながら不思議な気分であった。
 先にも述べたが全調査を終えた但州丸は、オブザーバーのサンチャゴ氏を下船させるため11月24日にポナペに入港した。出港までのわずかな時間ではあったが、ここにもポナペタイムと呼ぶにふさわしい雰囲気があふれていた。例えば銀行では行員の対応は実にゆたらかで、筆者が両替を頼むと随分丁寧に通貨のやり取りをしていた。続いて訪れた市場の果物店やみやげ物屋でも人々はポナペタイムの中にあり、それはあたかも時の流れが止まってしまったのではないかという錯覚さえ感じさせた。時間的制約もあって筆者らはサンチャゴ氏の車で島内を散策させてもらったが、もう少し時間があれば散歩を楽しみながらじっくりポナペタイムを味わってみたいと思わずにはいられなかった。
 ポナペでの数時間はあっという間に過ぎ、但州丸はいよいよ塩釜へ向けて進み始めた。入港まで約一週間、北上するに連れて次第に気温が下がっていくことを直に感じながら、時折グアムやポナペで出会った人々の時間感覚に思いを巡らせていた。さてそろそろ標本の整理をしなければと思い、カツオの稚魚に手を伸ばした筆者はふと考えさせられた。はたしてカツオの時間感覚とは如何なるものであろうか、と。

(資源管理部浮魚資源第2研究室)
写真
中層トロール網で採集されたカツオ
サンチャゴ氏
グアム・アプラ港に停泊中の但州丸
調査水域

katsuwo@myg.affrc.go.jp(Toshiyuki Tanabe)

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