洋上シンポジウム「松島湾の環境と生物」の顛末記

河井智康(コンビーナーとして)


 昨年(1992年)の8月27日、日本三景は松島湾洋上に観光機船はくつる号を浮かべて、洋上シンポジウム「松島湾の環境と生物」が行われた。そのテーマや方法などが関心を呼び、地元のみならず全国版の新聞やテレビで報道された。主催は水産海洋学会であったが、東北水研の多くの人達がその準備や当日の世話役を担当した経緯があるので、その時のいきさつを記しておこう。シンポジウムの内容は「水産海洋研究」No.58 に掲載されるので、ここではそれが実現されていく過程での苦心談を中心に「顛末記」として述べておく。何かの折りの参考になれば幸いである。
  1. アイデアが生まれるまで
     水産海洋学会では、これまでも毎年1回研究発表大会がもたれていた。しかし今までは東京でばかり開催されていたので、これからは地方でも開こうではないかということになり、比較的会員が多勢いる東北水研がホスト役をやってくれないか、という話がまいこんだ。会員の集まりがもたれ、とにかく引き受けることになった。もちろん皆の合議の結果ではあったが、何といっても友定部長や稲掛室長、さらには黒田室長など、もともと東京で水産海洋学会の中心的役員として活躍していた人達がいるので、今さらイヤとは言えなかったに違いない。もう少し勘ぐれば、それを見越した学会本部の知恵だったようにも思える。もっとも私とて、この学会が研究会として発足して以来30年来の会員なので、無下には断われない1人であったことは確かである。
     そこで、いかなる構想でとりくむかが打ち合わされた。研究発表大会は普通の学会のように会員が発表のエントリーを行うのであるが、慣例として何か関連行事を考えねばならないことになった。まあシンポジウム形式で何かをやるのが順当なところであろう、という話になり私がコンビーナーを引き受けることになった。私は以前から松島湾の環境問題に多少なりとも関心があった。かって東海水研(現在の中央水研)にいた頃、日本科学者会議のイベントとして「東京湾研究会」というのがあって、東京湾の環境をどう考えるかを数年にわたって研究したことがあった。東北水研に来てからも、いずれはそうしたとりくみをしてみたいと思っていた矢先でもあった。また、丁度地球環境問題が世界的にとりあげられ、ブラジル会議(UNCED)の年でもあったので、まずテーマについて迷いはなかった。
     しかしテーマの良さだけでは、この地方都市塩釜に多くの人を集めるのは無理だろうと考えた。いや、別に多勢集める義務があるわけではない。ただ、やる以上は多勢が関心をもって集まることで、いまの環境問題に思いを馳せる人を増やすことはできると思った次第である。無い知恵を絞り、蛮勇をふるって考え出したのが、松島湾に船を出してのクルージング洋上シンポジウムだった。はじめは東北水研の「わかたか丸」も頭に描いてみた。しかし乗船定員が少ないことであきらめた。参集者は約100人と見こんだのである。そしてたどりついたのが松島観光機船であった。
  2. 金策に走り回る
     だがもうひとつ、大きな壁が立ちはだかった。船をチャーターする財源である。そもそも思い違いは、船の定員が100人あれば100人のシンポジウムができると思っていたことだった。観光船はどれも2〜3階建てであるが、シンポジウムはワン・フロアーで行わねばならなかったのだ。ところがワン・フロアーに100人以上入れる船は最大級の「はくつる号」という船だけであった。それは3階建て、定員280人の豪華船だ。何せ日本三景という超一級観光地でもある。4時間のチャーター料は200万円を越える。ねばりにねばって半値位にまで値切ったものの、それでも金策は容易ではなかった。
     それから3カ月余りは金策に走り回らざるを得なかった。しかもテーマが環境問題だけに、あまり私企業には頼みたくなく、いきおい自治体や系統関係に依存した。そのためもあって大口の支援が少なく、あちこちを回って歩かねばならなかった。気持ちよく後援を引き受けてもらえた時の、天にも上るような嬉しさは忘れることができない。稲掛伝三さんや小達和子さんにも同行を願って飛び回ったおかげで、私はこの界隈の地理にも多少は明るくなる付録もあった。かくして、私を天に上らせて下さった団体は別記の通りである。
  3. シンポジウム内容の工夫
     コンビーナーは何も金策が主な仕事ではない。本来はシンポジウムの内容をどうするか考えるのが本務である。しかし、レポーターの人達にしても、どんなスタイルでやるかでは多少違ってくる。したがって、シンポジウムの内容固めと金策は同時並行的に進められた。私自信は東北水研にきてまだ2年位であったから、過去における松島湾の環境研究、あるいは今日も進行している環境改善事業の勉強から始めなければならなかった。ところが調べてみると、松島湾の環境変化の歴史は、遠く元和元年(1623)の伊達政宗による北上川改修事業に遡ったりして、大へんなことになりかねない。そこで以前に東北水研におられた菊地省吾さんのお知恵も拝借して、環境問題としては、一応戦後(1945〜)の動向のフォローに絞ることにした。
     一方、松島湾の浄化事業は現在も宮城県、塩釜・多賀城の2市、松島・七ヶ浜・利府の3町を中心にとりくまれている。その意味では、その浄化事業を成功させる方向でもシンポジウムが考えられることが望ましいわけだ。そこで、この浄化事業に関連の深い方にもシンポジウムにご登場願うことにした。
     かくして、当日のプログラムは別記のようになった。
  4. そして当日
     この年の夏の台風は針路がいつもと違っていた。8月の上旬には四国に上陸してから西に向って長崎に抜けたり、九州から日本海へ抜けて東北に来たりした。そして苦心の洋上シンポジウムを前に、又もやおかしな台風が近付いていた。万一の場合にどうするかも、観光機船の方と打ち合わせたりもした。しかし、どうやら8月27日の朝は、パラパラとおしめりはあったものの、風も大したことはなく、予定通りの決行となった。
     だが、もうひとつ私が内心ヒヤヒヤしたのが客の出足であった。学会というところはあまり事前に会合への出欠はとらない。全国に散らばっている会員の内どの位が集まるか。シンポジウムの後の研究発表大会へのエントリーは50人位であるが、必ずしもその人達がシンポジウムに全員出るとも限らない。多少は主だったところに打診はしておいたが、乗船者数を100〜120とふんで、ひるの弁当も120を手配した。いよいよ出港の9時が来た。時刻直前にかなりの人達が到着し受付が混雑して心配した。後の進行のこともあり、シンポジウムはすべて「定刻主義(帝国主義ではない)」でいかねばならなかった。幸い、東北水研の庶務課職員の諸君やアルバイトの人達にいろいろ手伝ってもらえたので混乱はしなかった。定刻出港。そして何と、乗船参加者(昼食必要者数)は109人で、予想にほぼ一致したことを聞いた時には、ヤレヤレと胸をなでおろしたものであった。
     後は順風満帆、日本三景を眺め、貴重な報告をきき、内容豊かな討論もできた。そして昼には豪華弁当(水研出入りの日替り弁当のン倍の値段)に舌鼓を打ちながら観光案内を聞くという、まことに結構なイベントになった。マスコミ各社も当日・翌日とテレビニュースや新聞紙面に大きく報道、まずはメデタシメデタシであった。
     後援団体には改めて厚く感謝をする次第である。
写真
挨拶をする平野敏行水産海洋学会会長
シンポジウムの趣旨説明をする筆者

(資源管理部長)

Tomoyasu Kawai

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