加藤史彦氏を憶う

谷口和也


 1枚の写真がある。髪の毛を坊主頭に近いほど短く刈り込んでおり、やや上目使いに左側を見つめている。前歯が大きく、前の方に出ているとみえて、意志的に閉じた口が幾分膨らんでいる。椅子に座っているので、両方の手は何かを決意するかのようにしっかり組み合わされて下腹部に置かれている。大正13年に撮ったものだ。この写真の主は若くして亡くなった宮沢賢治その人である。僕は、この写真を見る度に賢治と良く似た風貌を持つもう1人の若くして亡くなったかつての同僚を思い出さずにはいられない。そして、その度に胸がつかえて息苦しくなる。中央水研の加藤史彦資源管理研究官が亡くなってもう2年がたとうとしている。
 賢治は、昭和の初めの年に書いた「農民芸術概論綱要」で”世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”と記した。賢治をこよなく敬愛した、もうとうに亡くなった僕の父は、家の中の至るところに賢治の”雨ニモ負ケズ・・・”を始め多くの詩篇をはって、それを読ませることで幼い子供たちの教育を行いたいと願った風だった。賢治は僕にとっては最も親しい詩人だったのである。史さんと初めて逢った時、僕は即座に史さんの風貌は賢治に似ていると感じた。その後、同僚としてのつきあいを通じて、ある時僕は史さんに“宮沢賢治に似ているね”と言ったことがある。史さんはあの人なつこい笑顔を浮かべるだけで、黙って酒を口にした。僕は賢治を史さんの中に投影したかったのかも知れない。
 科学者ではあったが、本質的に詩人でもあった賢治は、農民と農民の子たちとの交流から無謀な(と僕は思う)使命感に貫かれて羅須地人協会を組織し、そして破綻した。しかし、賢治は世俗的な名声や地位とは最も無縁な地平に立っていたことは確かである。史さんは”漁民のために”とか”日本漁業のために”とかいった使命感を安直に口にすることを極度に嫌った。酒を交えてのことだが、”あいつは良く恥ずかしげもなく漁民のためになどといえるなぁ、なあ谷さん”と同意を求められたことがある。おそらく僕たちの世代に共通する多少不良っぽい衒いもあったとは思うが、偽善に対して鋭く反応する感性であったと言えよう。それは、自らの現在の力量と果すべき役割の乖離を強く意識していたことと、自己満足のあさましさを切り捨てたいと願った故ではないかと思う。そして何よりも、史さんも世俗的な名声や地位と無原則に妥協することを拒んでいたことによるであろう。
 史さんはよく学ぶ人であった。奥様、玲子さんがこしらえたであろうかわいい模様のついた袋の中に色の違ったビー玉をいつも持ち歩き、機会ある毎に、会議の最中でも、その袋の中からビー玉を1個ずつ取り出しては記録していた。何と、統計学の初歩を教科書通りに実践していたのである。史さんの早起きは有名であったが、それも毎朝の学習と市場調査を行うためであった。学生の頃から夜を中心に生活していた僕はそのことを直接聞いてからは早起きの習慣を取り入れることに決めた。2度ほど一緒に市場に行ったことがある。板マスという巨大なサクラマスを見たのはその時である。また、時の古川厚所長から聞いたのだが、史さんは昆虫学の学習に集中していた時期があった。古川所長はよく研究室に出入りしては、よもやま話をしながら所員を鼓舞する人であったが、その時、”こいつは手強い”と思ったものだ。その学習に区切りがついた頃であろうか、”谷さん、所の談話会は面白くないからオレたちで勉強会をやらないか”と持ちかけられた。いつも僕たちを温かく見守ってくれた沖山宗雄さんから”やるならば長く続けること”と忠告されたにも拘わらず数回で終わってしまったが、ともかく、史さんが個体群生態学、僕が海藻分類学の話題提供を行った。この勉強会は、史さん自身は学習到達度の検証を行う風であったが、僕には沖山さんの適確な御指摘とともに生態学に目を開かせてもらった貴重な経験として残っている。史さんの理論的な確かさはこうした独習を基礎にしていたし、自らの検証をかねていつも公開してくれたので、僕ばかりでなく各県の若い研究者も含めて史さんは”たよれる頼もしい兄貴”であったのである。賢治もまた良く学ぶ人であったと記憶する。
 史さんの名を初めて知ったのは、東海水研での初任者研修の時、「真野湾の魚類群集」の仕事を紹介された時であった。しかし、史さんは単に魚類群集だけを研究した人ではなく、サケ、マスからバイ、タイ、ヒラメ等実に多彩な仕事をした人であった。しかも、それらはすべて命ぜられた任務であったと言って良い。多様な魚種を研究し、具体的な漁業の現場に結びつけることができたのは、史さんの理論水準の高さによるものである。僕はこの10数年、福島県で仕事をさせていただいているが、ある時、福島水試の時の秋元義正場長から”日水研には加藤史彦という優れたバイの研究者がいるが、谷さん知っているか。あの仕事は実に立派なものだ。”とたずねられたことがある。その頃、史さんはすでに長崎に去っていたが、僕はその質問にすっかり嬉しくなったことを覚えている。優れた業績を残した史さんとそれを知る高い識見を持った秋元場長に。僕は、不勉強にもバイの仕事の内容については全く知らなかったが、”いえ、いえ、加藤さんは決してバイだけの人ではありません”と有頂天になって史さんの事を紹介したものだ。こと程左様に、史さんは多くの魚種にわたって言わず語らず優れた業績を残した。当然、多くの漁業者から敬愛された。史さんの短かった研究者生活は、正に“漁民のために”科学者として実践して来たのだと思う。
 命ぜられた任務を、不満はありながらも黙々とこなして来た史さんも「サケ・マス別枠研究」が始まろうとした時には流石に可成りクサっていたように思う。要員の一人に数えられていた僕も同様であった。それまで僕たちは「マダイ特研」の仲間で、一緒に船に乗ったり、潜水したり、測定したり、議論したりで、楽しくやっていたからだ。大酒しては、研究員の専門性を考慮しない要員配置に対し“ファッショ的、官僚的、子役人的・・・”とあらん限りの悪口雑言をいっては憂さをはらした。その頃、世界各地で無法な商取引きをして巨額の脱税をし、摘発されたある商社を例に引きながら、”俺たちは金儲けのために動員される商社員じゃないんだからね”などと愚痴をこぼしあった。朝まで飲んで2人とももう1言も口をきけなくなったことさえある。家族にも随分迷惑をかけたことを反省している。ともかく僕たちは若かった。
 その後、僕は東北水研に移って海藻の研究を本格的に始めるようになったが、史さんからの知的援助は続いた。大型別枠研究「マリーンランチング計画」でアラメの海中造林を命ぜられた時から“アラメってどんな海藻だったっけ”と最初は戸惑ったものの、僕はいずれ多年生海藻アラメの年齢群を分解しなければならないと感じていた。当時すでに、悔しいことに、徳島の小島博さんが年級群の分解に成功していたけれども。昭和56年度の研究成果発表会の際に、史さんの発表は誰にでも良くわかる素晴らしいものであった。僕は史さんに、その時にはすでに知己となっていた小島さんと一緒にアラメの年級群の分解方法等を相談した。”谷さん、丁度良いものがあるぜ”。それがMacdonald & Pitcher(1979)によるFORTRANのプログラムだったのである。現在では日水研の赤嶺達郎さん、彼は史さんの一番弟子を認じている、がより使い易いものに改変してくれており、多くの研究者が盛んに利用しているが、当時最も早くそのプログラムをアラメに適用することができた。その成果は、東北水研研報第46号に、僕と史さんの連名で「褐藻類アラメの年齢と生長」として発表している。最初、史さんは連名とすることを渋ったが、僕が無理にお願いしたものだ。”だってさ、史さんの頭がなければこの論文はできなかったじゃないか”。その後、史さんが”一番最初で、しかも一番良くあてはまった良い例だったなあ”と言ってくれたのが嬉しかった。その論文のアブストラクトの冒頭には、"It is necessary to establish the age structure and growth pattern of Eisenia biclis populations in order to develop technologies of marine afforestation"と、30台前半の若さ故に誇らしげに書いているように、この仕事が海中林の造成と管理の成功の鍵になったと思う。また、唯一報とはいえ、史さんと連名で論文をなせたことを誇りに思う。
 史さんは”長崎ではとても仕事ができる時間がないから、東京でとりあえずこれまでの仕事をまとめるよ”と言っていた。おそらく、生態系の管理構想を胸に秘めていたのではないかと思う。その頃、僕の中にも海藻群落を中心にした生態系の姿が熟しつつあって話を持ち出した時に、新しいプログラムについて熱っぽく語っていたからだ。しかし、”仕事のまとめ”を今はもう見ることができない。史さんの魚類群集を中心にした生態系の壮大な構想とそれによってもたらされるだろう水産業の展望。
 ”おお朋だちよいっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に作り上げようではないか・・・/まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう/・・・おお朋だちよ 君は行くべく やがてすべては行くであらう”。
 成長の途上で、そして志半ばで弊れた史さんを深く悼む。
(資源増殖部藻類増殖研究室長)

Kazuya Taniguchi