初めての乗船体験記

高橋祐一郎


 平成3年5月21日14時、予定どおり若鳥丸は塩釜港を出港した。少しずつ見送りに来てくれた人たちが遠ざかる。その時私はうつろな目で手を振っていた。
 私と同期入庁の田邉君にとって新任研修の最後を飾るものとなったこの航海の目的は、鳥取県境水産高校海洋科生徒の乗船実習が兼ねられた、マイワシの幼魚分布およびサンマの発生水準・北上魚群の調査であった。前後期に分けられた調査のうち、5月5日から19日までの前期分を田邉君が担当し、この日から私が担当することになっていた。
 若鳥丸は松島湾を抜けると急に速度を高めていった。もう引き返すことはできない。そう感じると、もうどうにでもなれと半ばやけになってしまった。
 それまでの私は乗船調査に行くことに対して、気乗りするどころかできればずっと避けていたいとまで思っていた。それは半月間というこれまで経験したことのない乗船期間の長さもさることながら、そこで調査員として仕事をこなすことが果たして出来るのだろうかという不安、すなわち船酔いが克服できないのではという危惧が、ずっと自分の心を覆っていたからであった。周りの人たちに助言を賜ったりもしたが、それは時間が経つにつれてあきらめへ、ついには開き直りへと変わってしまい、とうとう不安な気分が払拭されないままで乗船の当日を迎えてしまっていたのであった。いま思えば乗船する前から酔っていたようなものであったが、出港間際にわが室長である渡邊さんと交わした握手が今生の別れとなるのではないか、などという気持ちがふとよぎるほどの恐怖におびえていた自分がそこにいた。
 かなりの未練を陸に残したまま居室でたそがれていると、すぐ食事の合図があった。この乗船して初めての食事はカレーライスであった。このカレーライスは肉が多くてとても旨かったのを覚えているが、しかし早くもその数時間後には、自分の意に反しここでとった栄養分の殆どを海に帰す羽目になってしまうのである。口の中のpHを下げながら・・・。それからほぼ3日間、気分はずっとまるで大酒を飲んだ翌日のようであった。
 しかしそんな状態であっても調査員である以上、観測を行わなくてはならない。前後期を通じて乗船し、我々の指導にあたってくれたのは海洋環境部の松尾さんであった。最初、言葉も態度も優しく調査方法を教えてもらったのだが、船酔いと疲労のために頭が働かず、言われたそのときは覚えたつもりでも後になると必ず何かを忘れてしまっていた。そんな失敗を何度かすると、口調はそのままでも表情が段々険しくなっていったのを覚えている。ときには怒られたこともあったが、その後、さっき私が間違えた操作のアドバイスを記してくれたメモを次のワッチの時にさりげなく置いてくれていたときには心から感謝するとともに、もう同じ失敗は二度と繰り返すまいと反省する私であった。そんなこんなしてなんとか観測を終わると船内に戻れるのだが、いつもそこにはまったく自分とは対照的に元気な生徒達がたむろしていた。その脇をほとんど声もかけられないまま通って、居室で即横になる姿は我ながら惨めなものであり、そして床のなかでは、なかなかおさまらない船酔いの辛さを恨みつつ、乗船調査に対して絶望感さえ感じていたものであった。
 もしこのままろくに食事も出来ず満足に仕事もできないままなら、たとえ新人といえども、役立たずの烙印を押され、使えない奴と思われてしまうのではないか・・・そんなことばかり考えていた乗船3日目の夜のこと、生徒食堂の中を通って居室に戻ろうとしていたとき、そこでくつろいでいた司厨長さんに声をかけられた。この司厨長さんは温和な感じの人で、食事が終わるといつも生徒や船の人たちと楽しそうに話をしていた。それまでの私には船の中での話の輪に自分から入っていくだけの心の余裕がなくて内心寂しいものがあったため、とにかくそれに応え、そしてまず船酔いがつらいということを伝えたら、つぎのように話してくれた。
 「とにかくまず寝てばかりいるといつまでたっても船酔いは直りません。気分が悪くともとりあえず何か胃に入れ、そしてすこしでも直立歩行をして体を船にならした方が良いです。あとはリラックスすることです。高橋さんは初めてということで結構緊張が取れてないような感じがします。お喋りしましょう。会話すれば気が紛れるし、なによりもお互いの考えがよくわかってきて楽しいです。いまは元気に船の中を歩き回っている子供達も、最初の航海の時は高橋さんより船酔いがひどかったくらいでした。だけど私達がなるべくそうやって船に慣らすようにして、ここまでになったのです。」
 それから、測定の無い間にはなるべく多くの船の人と話をするようにしていった。特に生徒たちは年も近いせいもあって結構話が合い、居室で過ごす時間よりも生徒食堂にいる時間の方が全体として多くなったくらいである。その結果自分でも驚くくらい確実に船酔いの症状が快方へと向かっていった。流し網を入れられないほどうねりがひどく船内は揺れに揺れたときでさえも、かつてのような醜態をさらすことはなくなり、測定も大きなミスを犯すことはなくなった。そして司厨長さんとは以来、船の中で最も会話を楽しむ間柄となったのであった。
 さて肝心の調査内容である。まずXBT測定を観測点につくまでの間経度30分ごとに行った。ランチャーにセットしたXBTの現物はまるでおもちゃの鉄砲で、どうしてこんな簡単なもので水温測定ができるのか納得がいかなかったが、実際に投入されるとちゃんとパソコンの画面に深度−水温グラフが描かれるのには、思わず科学の進歩に感心させられた。
 そして観測点ではCTD測定および採水処理、そして新稚魚ネットによってプランクトン採集を行った。最初の内パソコンの操作につまずいたCTDであったが、回を重ねていくうちになんとか慣れ、のちには観測点での測定が一連の作業として行えるようになった。ただCTDを取り付けたワイヤーの伸長はその傾角を見て決定するのだが、見かけより底の潮が流れていたりしてなかなかうまくいかず、1000mまで降ろさなければならないところを揚げてきてみれば800m程度しかいってないこともあり、それ以来CTDを降ろすときにはウインチを操作している士官の人に伺ってからワイヤー伸長を決定するようにした。採水処理は栄養塩、クロロフィル、そして微小生物固定用にそれぞれ分けて行ったが、船が揺れてときたま水をこぼしてしまったことがある以外は大した作業ではなかったように思われる。また新稚魚ネットでの採集は、それ自体の大きさと重さもさることながら、ときには挙骨ほどのカツオノエボシが6個もとれて急きょ厚手の手袋を取りにいったり、サルパやオキアミが大量に入ってなかなか引き上げられなかったりして、結構苦労させられた。採集後、サンプル瓶の中でまだ元気に泳ぎ回っているシラスやサンマ稚魚を見るとやはり心が傷んだが、これも人間の業と自分を慰めつつ蓋を締め、冷凍庫へと持っていったのだった。
 さて流し刺網である。18mmから43mmまで七段階の目合の網を2反ずつと捨て網2反の合計16反での操業を朝まずめと夕まずめの1日2回行った。投網は船の人が交替で行っていたが、あれだけ長い網が毎回僅か5分足らずできれいに流れていくのには感心させられた。一方揚網はなかなか大変な作業であった。まず流した網をみつけねばならない。ラジオブイによってだいたいの位置を確認しそこへ移動してからブリッジで双眼鏡を覗いて目印のオレンジ色の浮き玉を捜すのだが、海面がうねり視界が遮られてしまうためそれが簡単にはみつからない。ときには双眼鏡片手に舳先端までいってやっと発見できたということがあったりもしたが、それでも私が船の人より先に発見したことは一度としてなかった。浮き玉がみつかるとそこへ船を寄せ、いよいよ網を引き上げる。大きなイカ角のようなものを網の先端に引っかけてたぐりよせ、一端を甲板に引き上げるやいなやラインホーラーに引っかけて、それを船員総出で束ねつつ引っぱってゆく。最初どうやって海の中から網を揚げてくるのかわからなかった私は初めてこの光景を目の当たりにしたとき、その豪快さに正直言ってびっくりしてしまった。
 ところで肝心の漁獲である。後期の観測点では前期に比べて全体的に漁獲が少なかったようであった。ときとして捨て網部分にカツオやシイラがかかっていることがあって多くの船の人を喜ばせたのであったが、ひどいときには全体の漁獲が10尾足らずで、しかもその殆どがハダカイワシばかりの観測点まであり、そんなときの松尾さんはどうにも不機嫌そうであった。とくに魚探に大きな反応がみられたにもかかわらず漁獲が少なかった時などは、心なしか落ち込んでいるようにも見えてどうにも声をかけづらく、そんなときはいつも次回こそ期待の魚種が捕れますようにと密かに願っていたものであった。しかし結局マイワシは、成魚は刺網で結構捕獲されたものの、幼魚は後期の調査の間一度も捕獲されることはなく、また新稚魚ネットのサンプル中にもマイワシのシラスは少なかったようで、私は改めてマイワシ資源が減少していることを思い知ったのであった。
 航海も後僅かとなったころには、もう船の人の役職も殆ど覚えるようになり、積極的に会話を楽しんでいた。ときとして酒席に誘われることもあって、ワッチの関係で余り飲まなくなったもののよく参加するようにまでなった。ここでのつまみはもっぱら、‘イカマヨネーズチン’ または ‘ピア(シマガツオ)マヨネーズチン’ であった。言葉の通り単純な料理であるのだが、これがまた不思議と旨かった。その場で食べ出したら止まらないくらい旨かったため、陸に帰ってきて同じ物を作ってみたのだが、どうしてもあの味にならないのがいまもわからない。
 それにしても船の人たちには多くのことで感心させられたが、その最たるものは、自分の作業時間にものすごい責任感をもって仕事をしていることであった。たとえ仕事前に酒を飲んでも、ワッチの時間前にはしゃんとした顔つきで作業している。特に船の最長老である甲板長さんはさすがであった。酒になるととても楽しそうに飲み、ときとして私を捕まえてはいろいろと語りかけ、自らこうのたまう。
 「オイ、若鳥丸のボースンはな、この通り確かに酒には飲まれてしまうような男だ。しかしな、ひとたび仕事となれば酔いなんかみんなふっとばして、誰よりも早くそして確実に作業をこなすことができる奴なんだってことはよおく覚えておけ・・・。」
 その僅か数時間後のまだ夜も明け切らぬ朝、揚網スタンバイの放送もまだかかっていないのに一番最初に甲板に出て準備をしているのは、まぎれもなく甲板長その人であった。それはとてもさっき殆どへべれけであった姿からは想像もつかないほどきびきびとしていたのであった。
 途中時化のために予定が狂い、改めて網を入れた観測点もあったが、何とか観測を終了し船は一路塩釜へ向かった。用船の予定は6月4日までであったが、このまま行けば一日早く入港できることとなったため、船の中に安堵感のようなものが漂った。
 入港予定日の朝、陸まであと約60マイルの地点で旋網を洗浄するために一旦停止することになった。旋網は前期の調査で3回使用したとのことだったが、後期の調査では漁獲が少なく、最後まで使用することはなかった。よってこれを行うのは初めてのことであったが、その作業は大がかりでかつ大変であり船員総出でやったにもかかわらず網をセットし終わるまでに1時間以上もかかった。私は開いた網の一端を持って少しずつウインチの方へ持って行く作業を生徒と共にやっていた。その重さは運動不足の自分にとって結構きついものだったが、あと少しで陸に上がれるんだということ思うと、腰の痛みなども少しは打ち消されたのであった。
 旋網の洗浄が終わると、船はまた走りだした。これでもう終わりだ。居室で横になっていると、これまでのことが次々と思い出される。人間馴れててゆけばどんなことでもできてくるものなんだな・・・などと考えているうちに眠くなり、いつのまにか寝ついてしまった。
 夢の中でなにやら声がする。ん?と思って気が付くと、そこには田邉君が立っていた。なんと私は入港したのに気付かずに寝入ってしまったため、様子を見に来た彼に起こされてしまったのであった。慌てて甲板に出ると、懐かしい塩釜の港が匂いとともにそこにあった。船は既に係留され全く揺れていない。とりあえず陸に上がろうと階段を降りようとしたら、船上歩行にすっかり馴れてしまったのか足元がふらついてしまい、なんと足を滑らせて落っこってしまった。しかし揺るがない大地の感触をしみじみと味わっているうちに、足取りはかつての感覚を取り戻した。
 これで私の調査員としての役目は終了してしまったが、若鳥丸はまだ境港まで戻らなくてはならないため、翌日には出港してしまう。半月間も過ごした船といまここで別れてしまうのはなんか口惜しくなってしまい、結局その日の晩そして翌日の朝も未練を残してしまったのであった。
 そして6月4日12時、昨日より乗員を2人減らした若鳥丸は塩釜から去っていった。昨日まで一緒に働いていた人の顔が少しずつ遠ざかる。別れに振る手が互いにだんだん見えなくなってきたとき、ふと気が付いた。確か半月前の自分は?・・・
 かつて食品学を専攻していたころ、それまでに水産資源学という分野を気に留めたことも殆どなく、またそこでどういう研究をしているのかなどは全く知らないような状態であった私にとって、本年4月に水産庁研究員として採用されたものの資源部へ配属されたことは正に青天の霹靂であった。当初はいろいろな妄想にとりつかれ毎日のように悩み、時には逃避することさえ考えたくらいである。しかしそんな私に対して、周りの方々はとても親切に仕事や研究を教えてくれたり励ましたりしてくれたため、今この分野での研究もやりがいのあるものと思えるようになった。そして更にそれをより感じさせてくれたこの若鳥丸で出会った方々すべてに心から感謝するとともに、これからも頑張っていこうと思っている。

(資源管理部浮魚第一研究室)


Yuuichirou Takahashi