私のアメリカ留学体験記

安田一郎


 今を遡ること1年数カ月前の1989年10月1日、期待と不安に胸高鳴らせながらボストンのローガン空港に降りたちました。その後1年間科学技術庁在外研究員として、海洋渦の力学の研究と人工衛星から海面高度を測定するアルチメータのデータの利用方法の修得と情報収集を目的に、マサチューセッツ工科大学(通称MIT)に留学しました。残念なことに私自身、未だ今回の留学についての確かな評価ができていません。留学はどうでしたかと聞かれれば、大変良い経験でしたと答えますが、この経験の中身は、楽しいものと苦々しいものとが入り混じっている状態で、いざ文章にするとなれば、種々なことが頭を行きかい、話がまとまらないのです。
 とにかく、まずは苦々しい方から始めることにします。まず第一の失敗は、偉い先生について研究すればきっと良い研究ができるだろう、日頃の雑用から解放されてさぞたくさんの仕事ができるだろう、と甘い考えで留学に望んだことでした。この甘い考えは渡米後すぐにうち砕かれました。指導教官であったフリーエル教授と初めての打ち合わせの席で、私がこれもやりたいあれもやりたいと自分の計画を話した後、彼はその中の一つの問題の解決に重要な数値計算のプログラムの扱い方を教えてくれました。その後そのプログラムを使ってたくさんの実験をしましたが、やればやるほどわからないことが出てき、それを数学的な手法で解決しようとすると、1つの式を理解するのに1日以上かかったりと、いったいアメリカまで自分は何をしにきたのだろうか、と悩む日々が続きました。大学院の修士課程を出てから約6年、観測に明け暮れ、式など扱うことを忘れていた私には数学に対するコンプレックスは日に日に強くなる一方でした。
 さらに追いうちをかけるように、言葉の問題がありました。日常生活を営む上で英語の不便は気になりませんでしたが、自分の思っていることを率直に話したり、たくさんの人の中で議論に参加したりする場合、ただでさえ慣れないことを英語でするのはストレスで、その上自信喪失状態だった私は次第に人から遠ざかるようになってしまいました。ところが、そこはアメリカで日本ではなく、ふてくされて暗い顔をしていても誰も助けてくれません。アメリカではなにも話さない人は消極的な人間として敬遠されるのです。もっとも暗い顔をして無口な人間には、人が寄りつかないことは日本でも同じかも知れません。また、研究は個人でやるものであり、自分の問題は自分で考えろ、成功するのも失敗するのもアンタの自由という研究上の個人主義も、そのときの私には馴染まず、どうして先生はもっと種々なことを教えてくれないのだろうという恨みがましいことまで考えるようになったのです。このころの私は登校拒否児童や劣等生の気持ちがよく理解できるほど、落ち込んでいました。
 半年を過ぎ、8カ月をすぎても研究は進まず、苦悩の日々は続きましたが、そのころにある転機がありました。それは、“諦め”でした。1年くらいで良い成果を出すのは元々無理だった、周囲の皆と仲良くやろうとするのはやめて受け入れてくれる人とだけつき合おう、英語は無理してうまくならなくて良い、帰国後の誹謗中傷は甘んじて受けよう、今やっていることをとにかくまとめて帰ろう、という諦めです。同時に折角アメリカにきたのだから、せめて土産話になるくらいは遊んで帰ろうと開き直ったのでした。それからは、ナイアガラの滝、メイン州アケーデイア国立公園、カナダのケベック、モントリオール、ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィア、ラスベガス、グランドキャニオン、イエローストーン、ロスアンジェルス、サンヂエゴ、シアトル等、資金と時間の許す限り旅行をしました。春から夏にかけてのアメリカ各地はすばらしく、アメリカにきて良かったとようやく思えるようになりました。また、春から夏のボストンも良いところで、すばらしい野外演奏会が毎日どこかで開かれ、燃えるような緑の郊外では、川で舟遊びを楽しんだりできました。
 リラックスし、たくさんのことを諦めることで集中できたのか、研究はそのころから急に進展し始めました。1つのアイデアがうまく適用できることがわかってからは、1回の旅行ごとに1つずつアイデアが成功するという具合でした。ほぼ内容がまとまった8月の暑い日、その内容をメモした紙を持って、ウッズホール海洋研究所のWalsh Cottageで開かれていたGeophysical Fluid Dynamics Seminarにフリーエル教授を訪ねました。他の人との応対に忙しい彼をようやく捕まえて最近の成果を報告しました。それまで私のもってゆく中途半端な結果にうんざりした様子をみせていた彼でしたが、今回の報告には目を輝かせ、Goodという言葉を3回言って、良かったねと肩をたたいてくれました。私はこのときほど研究をしていて良かったと思ったことはありません。ようやく認めてもらえた喜びとそれまでの苦しかった思いが重なり、思わず涙があふれそうになったものです。
 楽しそうにしていると、友人も次第に増えてきました。帰国直前には、お世話になった人や親しくなった友人を家に招いて日本食パーティーを数回しました。ちらし寿司やテンプラ等は大変好評で、暖かいパーティーに呼んでくれてありがとう、と言ってくれる人も多く感激でした。M I Tという大学はノーベル賞学者が何人もいる大学で、そのためか競争も激しく、難しい顔をしていないと馬鹿にされそうな雰囲気がありました。学生や研究員の半数以上は他の国から来た私のような人間で、認めてもらいたいために必死で研究し、そのために皆難しい顔になってしまうようです。パーティーでの無邪気に楽しそうな表情を見て、苦しんでいたのは自分だけでなかったことがわかりました。
 ようやく外国生活も楽しくなり、研究も進展し始めたところで、日本に帰る日がきました。あと1年あれば、研究も進展し、友人も増えて、ますます楽しくなったことと思います。その場合、日本での生暖かい粘性流体のような動きの遅い研究生活に飽きたらなくなって、帰りたくなくなったかもしれません。様々な問題に対応する必要のある水産研究所に米国式の研究環境を望むのは難しいかも知れませんが、経済大国となり、国際的な責任として基礎研究の重要性が叫ばれている今、旅費がなく研究最前線の 情報をつかめない、共同研究者間で実質的な話合いもできない、雑用が多すぎる等の非効率的な研究運営、研究者に対する正当な評価と予算措置の不十分な現在の研究事情は改善の余地が多くあるのではないでしょうか。このままでは基礎研究分野でますます欧米に差をつけられるような気がします。
 MITやウッズホール海洋研究所でのセミナーやそこにいる海洋物理研究者達から受けた印象では、今後海に関する質の良いデータがどんどん集まるであろうこと、そして、これまで定量的ではなかった各種物理量(例えば、黒潮の流量や熱の輸送量)が誤差付きで求められるようになり、数値モデルと観測データを両方用いてより精密そして定量的な海洋像が得られるようになると思われます。ここで主役を演じるのは人工衛星から海面高度を観測するアルチメータであり、超音波式ドップラー流速計(ADCP)であり、数値モデルであり、精度の高いCTDデータでありましょう。特に、アルチメータは現在世界中で盛んに解析され、最近では、黒潮続流やその周辺の暖冷水渦の遙か東方までかなり詳しい流速場が約3週間の時間スケールで求められるようになっています。
 これらのデータを用い、今後数値モデルが整備されれば、海洋の数値予報が可能となり、漁海況予報が大きく前進するのも、そう遠い将来のことではないでしょう。また、これらの観測、解析技術の発展はこれまで疎遠だった海洋物理と水産資源学、海洋生物、海洋化学とを有機的に結び付けることでしょう。それらの分野の揃った水産研究所ではそれぞれの分野で優れた研究がなされると同時に、これから新しい個性的な研究が発展するのではないかと密かに期待しているところです。
 ここで書いた私の経験はあくまで個人的なもので、その印象は性格によっても、留学する場所によっても、その人のレベルによっても随分違うことでしょう。とにかく留学して論文の1つも書け、いろいろなことを見聞き出来、私にとって本当によい経験となりました。最後にこの紙面を借りて、すばらしい留学の機会を与えていただいた科学技術庁研究開発局宇宙開発課、農林水産技術会議国際研究課、水産庁研究課、お世話になった多数の方々に心より御礼申し上げます。とくに、多忙中にも拘わらず気持ち良く留学を認めていただいた、奥田邦明前室長初めとする東北水研海洋環境部の皆様に厚く感謝したいと思います。
(海洋環境部 海洋動態研究室)

Ichiro Yasuda

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