平成2年度から始まった大型別枠「生態秩序」(バイオコスモス)研究

−異体類の着底場選択における行動様式の解明−

山下 洋


 カレイ類は私たちの食卓に最も馴染みの深い魚のひとつですが、わが国沿岸におけるカレイ類の漁獲量は近年急激に減少し続けています。その原因として、第一に遠洋、沖合漁業からの撤退に伴い、沿岸での漁獲強度が上昇しオーバーフィッシングになっていること、第二にカレイ類の多くはごく沿岸域を幼期の成育場としており、これら成育場が海洋汚染や埋め立てにより急速に減少していることが挙げられます。政治や行政とも深く関係する問題ではありますが、水産科学のサイドからみると、カレイ類も含めた沿岸性の有用魚類資源を有効に管理し増産する技術を創出する事は、水産研究所の研究者に緊急に求められている重要な課題と言えます。私はバイオコスモス計画の立案段階をまったく知らない、途中からあわててバスにとび乗った者ですが、バスの行き先、すなわちバイオコスモス計画浅海域生物制御サブチームに与えられた主題は、このための基礎研究であると勝手に解釈しています。本研究テーマのポイントは、”着底”と”変態”にありますので、まず着底と変態について少し説明しましょう。
 脊椎、無脊椎にかかわらず底生海産動物の多くは卵あるいは幼生として浮遊生活を経験した後海底に移動し、底生生活へ移行します。これを”着底”と言います。底生生活への移行に当たっては、浮遊生活に適した形から底生生活に適したものへと大きな形態変化が伴い、形態変化には生理的変化が先導または付随します。これを”変態”と言います。また、着底により生息空間の構造やそれを取りまく環境、餌生物なども急激に変化することになります。底生期の形態は成体と基本的に同じであり、変態を境にして、消化器などの諸器官や運動能力が急激に発達し成体型の体制が整います。このように、着底・変態は底生海産動物の生活史における一大イベントと言えます。浮遊期を分散に主力をおいた生活史戦略とみれば、底生期は、成体に至る生き残りと成長に戦略の基本がおかれている時期であると考えることができます。すなわち生き残りと成長に適した着底場(成育場)に円滑に到達できるか否かは、このような生活史を持つ生物資源の加入量水準を決める大きな鍵となります。本研究は魚類の中でも顕著な着底と変態を行う異体類仔稚魚について、着底の過程とその機構を調べ、着底場選択における行動様式と着底場選択の意義を解明することを目的としています。
 カレイ類の多くは、やや沖合の海域で産卵します。卵や仔魚は、沿岸へ輸送されまたは移動し水深10メートル以下のごく浅海に着底するものから、接岸せずに水深数百メートルの海域で幼期を過ごすものまで様々です。後者では多くの場合仔稚魚の採集は困難であり、その生態はほとんどわかっていません。
 私達がここで研究しようとするのは前者です。東北太平洋沿岸の主要な沿岸漁業対象種であるイシガレイ、マコガレイは仙台湾では12月から1月にかけて水深30〜50mの海域で産卵します。卵の性質についてみるとイシガレイは浮遊卵、マコガレイは沈性粘着卵という違いがあります。仔魚はどちらも水深10m以浅のごく沿岸域に輸送され着底します。産卵場から成育場までの移動は、大きく二つのフェイズ、“接岸”と“着底”に分けることができます。
 接岸期、すなわち浮遊期には両種のニッチェに明らかな差はみられません。しかし両種の主要な着底・成育場は明瞭に異なり、イシガレイの成育場は河口域などの塩分濃度のやや低く比較的流れの早い細砂から中砂の底質の水域であるのに対して、マコガレイは流れの緩やかなシルト地帯を成育場とし低塩分の水域には出現しません。また底生期には、イシガレイは端脚類を主食としマコガレイは線虫類や環形動物を中心に摂餌することから、両種は底生への移行と同時にはっきりと住み分け、食い分けを行うことがわかります。冬季から初春季にかけての仙台湾という同一の時空間において、イシガレイとマコガレイの間に異なった接岸、着底の機構が存在することが示唆されており、両種のメカニズムの違いの比較研究が着底場選択戦略の普遍的な解明に大きく貢献する事が期待されます。
 初年度の研究目標は、本研究遂行に当たって主要な武器となる耳石の解析方法を確立することです。耳石には1日1本の割合でリングが形成されることが多くの魚種で報告されており、それに加えて、河川への遡上や降海、着底、変態などの大きな生理的インパクトにより、その日齢に対応したリングに何等かのマーク(チェック)が出現することが知られています。これらを用いて、浮遊期の長さや、着底のタイミング、成長速度などを推定することが、本研究の重要なポイントのひとつとなります。初年度のステップは、1)耳石輪紋形成の日周期性の証明と第1輪の形成日齢の確認、2)発育段階と輪紋構造の関係の解析、3)成長速度と輪紋間隔の関係の解析、4)1)−3)を応用した仔稚魚の成長及び生態履歴の解析の試み、の4段階から成ります。
 2年度は接岸機構に注目します。仙台湾では冬期北西風が卓越し、表層の吹送流は沖合い方向に卓越する可能性が示唆されます。このような接岸には不利と考えられる海洋条件下で卵・仔魚はどの様な受動的及び能動的プロセスにより接岸するのでしょうか。この問題を解明するためには、吹送流、潮汐流、河口フロントの効果等の輸送に係わる物理環境、卵・仔魚及び餌生物の水平、鉛直分布等の生物サイドの特性などを総合的かつ集中的な海洋調査により把握しなくてはなりません。特に、両種が異なった着底場に集積する機構には、塩分濃度や光に対する走性の違いが重要な鍵となることが考えられます。また、河口フロントにおける仔魚の挙動や、濁りに対する反応なども注目に値します。この観点からは、飼育実験により発育段階毎に主要な環境要因に対する反応を明らかにする必要があります。
 3年度は着底過程に注目したいと思います。着底場に近づいた仔魚は、変態を開始し、海底とその上部の水中を行ったり来たりしながら、徐々に底生生活の割合が増大し、最終的には不可逆的底生期に入ります。着底場の環境が不適な場合には、移行期間を延長して好適な着底場の探索を行う可能性も考えられます。もしそうであれば、着底場の環境が好適であるほど移行期は短いことになります。しかし、移行期の生態や行動様式はほとんどわかっていません。そこで、着底場における24時間連続の調査を着底期に集中して行い、これと並行して実験的に様々な環境を設定し、底生移行期の仔魚の行動を観察する計画を立てています。また、耳石の日輪解析などを用いて、不適な成育場に着底せざる得なかった個体の栄養状態や成長速度、移行期間の長さなどを好適成育場に着底した個体と比較することにより、成育場の機能と着底場選択の意義を明らかにしたいと考えています。
 魚類では、卵期、浮遊仔魚期の減耗が大きいことはよく知られています。底生魚類では、さらに、急激な形態的、生理・生態的変化のために着底期が第2の危機ステージとなります。底生魚類資源の増殖、管理技術を開発するには、浮遊期よりも着底期に着目したほうが現実的でありしかも効果的と考えられます。そのためには、着底期の行動や生き残りのメカニズムを解明することが重要です。また、これらの研究により、成育場の保全、整備、造成による生産(収容)力の拡大等の具体的な施策へと発展させることが可能になると思われます。
 最後に蛇足ですが、両種の比較研究の一環として先日イシガレイとマコガレイの刺身を食べ較べてみました。イシガレイには独特のかおりがありいやがる人もいますが、福島県などではむしろこれが好まれ、魚価も高いと聞きます。私も、ヒラメにも似たシャキッとした歯ざわりが気に入りました。マコガレイは大分県ではシロシタガレイとして珍重されていますが、刺身では水っぽいという下馬評でした。ところがさにあらず、身はプリプリ・モチモチとして非常においしい。刺身としては1級品ではないかと思います。東北地方に多いやや甘口の純米酒にもよく合いました。ついつい、最後には”飲む・食う”の話しになってしまいましたが、正直に言いますと、私の場合、研究の原動力になっているのは高尚な使命感などではなく、大脳膸質が司る原始的な欲求のような気がします。
(資源増殖部魚介類増殖研究室)

図1:概念図

図2:フロー図


Yoh Yamashita
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