傘松の悲哀

梅本 滋


 水研予定地を初めて訪れたのは、私のおぼろげな記憶をたどってみると、昭和24年の秋だったように思われる。そこは籬島のそばに半島状に突き出た松林の小高い丘だった。ススキの穂が浜風に揺れていた。小指の頭ほどの小さなセミがチッチッチッとススキの葉で鳴いていた。
 丘の上の松の木の一本だけが、特別に立派な姿をしていた。あたりの松の木から抜きんでて高く、その頂は傘状に大きく枝をひろげていた。自然保護が声高に叫ばれる今だったら、無条件で名木に選ばれることだろう。
 それから一年後、この丘に三棟の水研庁舎が完成した。赤瓦の屋根、白い外壁の建物は松林の景色に違和感をそれほど与えなかった。本舘の建物は、用務員室と宿直室のところで、例の傘松の幹を三方から囲むような形にくびれていた。幅の狭い丘の上で、傘松に遠慮した苦心の設計と思われる。
 日本三景、松島の一隅に位置して、松籟を楽しめる景勝地に東北水研は建てられた。サワサワと鳴る軽い松の葉音は夜の静けさを通して快く聞こえた。傘松は幹が少し傾いていた。老木の貫禄たっぷりの太い幹は空洞になっていた。海辺の丘の上に高くそびえる傘松だけに、風当りは強い。大風で、もしもこの幹が折れるようなことがあれば・・・。その傾き具合いから宿直室を直撃すること必定、強い風の吹き荒れる晩の宿直勤務は、いい気持ちがしなかった。
 しばらくして、この松の巨木は哀れにも根本から切り倒され、傘松は姿を消した。それが、水研がこの丘に建てられて何年ぐらい後のことだったのか、私の記憶ははっきりしない。確かなのは、「安全第一、傘松処分」を唱えた人の一人が私だったこと。「水研の丘は、樹や草が生い茂る自然のままがいい、下手に手入れはしないように」と言って水研の丘の自然を愛しておられた木村所長に申し訳ないことをしたものだと、私は昔のことを恥ずかしく思い出す。
Shigeru Umemoto

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