幼年期の東北水研

谷田 専治


 明治に生まれ、大正に育ち、昭和に働き、平成で消えてゆこうとしている八十余年の吾が身を振り返ってみる時、様々な思い出が走馬燈のように浮かんでくる。その中で一つの運命とでも言えそうなことは、何遍となくめぐりきた草分け的な仕事であろうか。
 月島の中央水産試験場が解体して、8海区の水研が誕生した。その一つ東北水研の増殖部に、函舘の学校をやめてやってきたのが昭和25年の秋であった。資源・増殖・利用の3部で、丘の上に建物が3棟。眼前に塩釜港・松島湾がひらけ、すぐ足下からノリ養殖の施設が遠くまで見渡される。保養所にも最適といった感を深くする。
 増殖部の建物へ案内されたが、机も椅子も何もなく全くの空家。これで明日から何か研究を始めなければならないのか。部は新設ということだから、予算でもたくさんあるのかと思えば、増殖部割当て予算は所内で最低と云うこと。いささかあきれたが、無から始めるのが自分の運命らしいと、クヨクヨすることを止めにした。
 無から仕事を開始することは、幾度かの経験ずみで、東北水研増殖部が初めてではない。学校卒業と同時に下田につくられた三井海洋生物研究所の研究員にされ、月手当金45円也をもらい、2年間、格子なき牢獄とでも言える人里離れた海岸で、好き勝手な仕事をさせてもらった。新設の研究所で、研究室としてあてがわれた室には、机と椅子があるだけ。何もないから必要なものは書き出してくれということで、研究用の機機器具から、薬品・ガラス器具・文具類まで書き出して注文してもらう。だが当時(昭和8年)は今と異なり、下田から東京へ電話注文してもなかなか届かない。3〜4ケ月の間にボツボツ揃うという有様で閉口した。しかし、そのおかげで、金や物がなくても、やろうと思えば何かしら研究はやれるものだという貴重な体験をした。次は昭和17年に、北京にある同仁会の華北防疫処に衛生昆虫の研究室をつくった時。これも無から始めたのだが、これは下田の時よりも苦労せずに形づくれた。敗戦でリュックーつで引き上げてきたら、函館の学校へ行けと命じられた。学校は進駐軍に占領されたので、市内の小学校に間借りをしていた。しばらくして返還されて本来の校舎に移ったが、二度の引越しで、研究用教材・実験用の機器は相当数破損し、部品が紛失していて使用に耐えないものだらけ。新設と大同小異をここでも体験した。
 東北水研増殖部も無からの出発。資源・利用部には月島水試時代の財産をもってきたせいか、増殖部よりはましであった。今更、何をか言わんやである。とにかく、貝類と藻類を対象として研究することとし店開きと相成った。小道具は資源・利用両部から拝借・頂戴、管瓶は融通してもらい、薬品類は分けてもらいながら研究を開始した。出入りの商人にも相当の無理を云って可成の迷惑をかけた。乞食研究などと陰口をたたかれながらも、若い研究員達も歯を食いしばって研究に精進してくれた。物がない、金が足りない時は、いかに手元のものを利用し、創意工夫によって研究を進めてゆくかを、身をもって体験してくれたことは、その後の研究活動に大きく影響しているものと信じている。当時の水産研究は、進駐軍の意向があったのか、資源研究が主体で、増殖や利用の研究は添えものという感があった。時は敗戦後間もない時期、食糧も住宅も、衣料その他諸々の物資の不足だらけの時代だ。こんな時こそ、食糧の増産、水産振興に手っとり早く役立つであろう増養殖の研究を先行させるべきではないのかと、日本人的感覚で水研の方針に疑問をもったのは、独りわれのみではなかったようだ。
 増養殖研究の華開く時代が、いまにやってくるから、それまでは我慢して不自由をしのんで頑張ってゆこうと研究員達を励ましつつ、もくもくと仕事に精進した揺藍期のことが懐かしく思い出される。
 時がたつにつれて、沿岸各地の漁業者の理解もすすみ、気安く対話もでき、夢のような話で迷惑をかけたり、夜遅くまで議論に華をさかせたりで、多くの人々と親しくなり、地域開発に多少でもプラスできたものとうぬぼれている。そんな各地の人々も、いまでは長老格として活躍しているであろうと、懐かしく思い出される。
 水研が20年30年と年輪を増すにつれて、建物は堂々たるものに変わり、規模も大きくなり、高価な器具機械が研究室の主のようにデーンと鎮座ましましている。草創の時代とは格段の違いである。立派な研究業績が次々と出ること間違いなしと感ずる。でも、貧乏性の自分には、うらやましいという気がおこったことがない。むしろ機械に使われ、豊富な研究費にふりまわされなければよいがと、いらぬ苦労の種となる。研究は金や機械がするものではなく、人が研究するのだということを忘れないで頑張ってほしいと念じている。
Senji Tanita

目次へ戻る

東北水研日本語ホームページへ戻る