資源調査事始め回顧

小達 繁


 退職してから瞬く間に2年が過ぎてしまったが、40年に及ぶ研究生活の大半をお世話になった東北水研での出来事が、懐旧と反省を交えながら去来する。昭和24年8海区制による東北水研の設立、昭和27年塩釜市に新庁舎竣工、昭和42年現在地に新築移転などの節目に関連したことが、昨日のように甦ってくる。
 東北水研の創成期において、未だ揺藍の時代にあった水産資源研究に携わったものの一人として、この機会にその一齣を回顧し、記録しておくのも無駄ではあるまい。
 白河以北を全く知らなかった私は、昭和21年に塩釜から10トンばかりの底曳船に乗せて貰い、仙台湾で数日間操業したのが、当地と関わりを持つ最初となった。翌22年には、農林省水産試験場木村研究室で卒業論文の指導を願うこととなり、再び宮城県を訪れることになった。この頃の仕事の場は、石巻・女川・気仙沼の各港であり、底曳船の基地と水産加工の町塩釜とは殆ど縁がなかった。
 当時の木村研究室には、戦後我が国の水産海洋や資源研究に多くの業績を残した先輩達が屯ろしていて、木村喜之助室長が戦前から手がけてきたカツオ漁況予報の研究に取り組んでいた。これらの俊秀達も、間もなく発足した8海区制とともに、新しく設立された各海区水研へと分かれて行き、私は東北水研東京事務取扱所勤務を命ぜられた。その頃塩釜では未だ新庁舎が建設中であり、専ら東京で旧研究室の残務整理と移送準備に忙殺されていた。
 太平洋戦争敗戦の痛手と四島に閉じ込められた日本の食糧欠乏は深刻な時代で、動物蛋白を確保するには漁業が手取り早い手段であり、必然的に沿岸漁業へ漁獲努力が集中せざるを得なかった。この様な情勢の中で、占領政策の落し子とは云え、地域水産振興の科学的拠り所を得るための海区水研の新設は、それなりの意義があった。設立後40年という歳月は、その評価と反省を促す良い機会である。丁度、戦後の我が国水産研究を支えてきたと自負する、大正未〜昭和初年生まれの引退に伴う新旧交替の時期でもあるからである。そう云えば、最近、時折研究所を訪れると、新顔が多くて戸惑うばかりである。
 兎にも角にも、戦後乱獲状態にあるとされた沿岸漁業の合理的経営を旗印に、その根拠となる資源の把握、適正漁獲量、漁況予測を命題として、海区水研の資源研究者は、新しい任地で苦難を克服しながら、その解明に努力を傾注したに違いない。何しろ水産資源研究の参考文献と云えば、水産資源学総論(相川広秋著)、水産物理学(田内森三郎著)がある位で、海区別担当魚種によって、研究手法を工夫せざるを得なかった。
 東北水研海洋資源部は、木村所長兼部長の学風によって、独特の資源調査が展開されていた。当初の研究課題は、カツオの来遊機構と東北海区前線帯における漁場形成、また、奇しくも水研設立と同時に急速に発展してきたサンマ棒受網漁業では、早期出漁の調整上解禁日の合理的設立が主なものであった。
 このため、私達は主要漁港である枕崎・焼津・塩釜・石巻・女川・気仙沼等に調査員として漁期間中駐在し、入港してくる漁船から漁況資料を収集する現地陸上調査が重要な任務となった。これを“船まわり”と称し、魚市場で水揚げが始まる早期4時頃から、調査員必携の七つ道具(各種用紙類、魚体測定器具一式、漁況速報など)を担いで、ゴム長靴や合羽に身を固め、眠い目をこすりながら下宿を出る。船まわりとは読んで字の如く、各船を廻って船頭に面接し、前の入港時に依頼してあった漁況報告の回収、或は航海日誌や航跡図の転写をする。口の重い船頭から、漁況速報を説明して意見を求め、企業秘密でもある漁場を聞き出すには、それなりの年季が要った。また、気の荒い魚市場の水揚げ作業中に、邪魔にされたり危険を冒しながらの魚体測定もしばしばであった。こうして、午前中は船まわりで一杯、午後からは収集資料による漁況海況図の作成、標本魚の精密計測、算盤と手動計算機によるデータ集計など、夕刻までに及ぶ長時間作業で、魚市場の休日は滅多になかった。
 この様な漁況調査は、後に重要となった資源の数量解析という観点からすれば、必ずしも当を得ていなかった。そして適正な統計的解析手法を導入する必要もあって、全所内有志による統計理論の勉強会を開くなど、切磋琢磨を行ったものである。一方、農林水産統計も着々と整備される様になり、これに精度の高い生物統計が加わることによって、資源解析は完成する筈であった。
 そこで、今まで続けてきた現地陸上調査を、標本抽出解析理論の実践の場として活用することとなった。即ち、教科書の示すところに従って、毎日入港してくるカツオ船・サンマ船を、入港順・漁場別に一連番号をつけ、骰子の出た目によって1番目の標本船を決め、以下所定の抽出比で標本船を選び出す。次に、その標本船の船槽から水揚げされる籠(当時は、カツオ・サンマも約40Kg入りの竹籠を用いた)の順番に従い、これも一定の抽出比で籠を抽き出し、魚体測定を行う。この様な単純作業を、毎年漁期中繰返してきた。若さと資源研究初期の情熱が、それを推進させていたのかも知れない。この時期に苦楽を共にしてきた同僚達も、次々と去り残り少なくなってきた。
 その後、カツオやサンマでは、標本抽出理論に基づき綿密に設計された調査による魚体組成と、ランダムに測定した結果とで大差がないことが判り、また、人員不足もあって次第に簡略化せざるを得ない状況となった。昭和30年代初期に空前の大豊漁をもたらしたサンマ棒受網漁業や、近海から沖合へと発展するカツオ釣漁業への対応、また、調査内容の多様化も加わって、それまでの様な漁海況調査・抽出測定を継続することは、次第に困難となって行く。海区水研の組織人員は、敗戦による復員者と8海区水研の設立によって拡充されてきたが、その後は定員法に阻まれて新規採用などは十数年にわたって極めて希であった。これによる研究者の年齢構成の歪みは、後遺症として最近まで残っており、昭和初期生まれの年代が引退しないと、水研の戦後は終らないのである。
 この様な情勢の下で、東北水研では従来の陸上調査体制の維持拡充と広報部内の強化を図るため、関係漁業団体の支援を得て昭和32年に漁場知識普及会(昭和47年には漁業情報サービスセンター)を設立することとなった。当初は、漁船を通じての漁海況資料の収集と、漁況速報の配布や無線通信による広報活動で、研究と現場の一体化を図り、資源研究を促進させる苦肉の組織であった。この中心となって活躍した高橋英雄氏(同センター常務理事)の苦労は大変なものであったろう。
 これに関連しては、資源研究の軌道修正も無縁ではない。漁業は対象資源からの標本抽出ではあるが、魚群が集中して漁獲され易い時期、場所で獲られるため偏りが生じ、漁期外の実態は全く判らない。索餌期に東北海区の前線漁場で効率的に漁獲されるカツオ・サンマ等は、再生産に関する知見は殆ど得られなかった。そこで、今までの陸上調査を補完するため、調査船による生態調査が重視される様になった。サンマでは、三陸沿岸で秋産卵による大量の稚仔を発見してから、次第に冬期東海〜紀南水域の産卵場調査へと発展して行くことになる。
 話は遡るが、第2次大戦後急速に減少傾向を見せ始めたマイワシの不漁対策として、昭和24年度から農林省水産試験場(引続き東海水研)を中心に海区水研、各県水試が参加して、全国的調査網が組織され、協同研究を行うことになった。その調査計画の過程で、産卵調査による資源評価を主張するグループと、近代統計学の導入により資源特性値を得るための陸上調査を支持するグループとが、会議で大激論を斗わした。両者とも資源研究の側面を主張したにすぎないが、研究初期の真撃な情熱の程が今に伝えられている。皮肉にもその後数年を経てマイワシは壊滅状態となったが、その研究成果は鰛資源協同研究経過報告(昭和24年〜29年)、後にアジ類・サバ類・スルメイカを含む沿岸重要資源協同研究経過報告(昭和30〜36年)として刊行されており、現在のマイワシ資源の動向解明に活用されているのであろう。ここで記したいのは、東北水研がこの様な全国規模で実施された協同研究に参加しなかった唯一の海区水研(淡水研を除く)であったことである。当時、カツオ・サンマの資源調査研究に脇目も振らずに専念し、東北モンロー主義を固持していたのも、それなりの理由はあったが、このことは東北の風土とともに後年他海区水研との交流に影響を及ぼした様に思えてならない。前記のイワシ会議での論争も風聞であり外部からの刺激を体験し、資源研究の動向を伺う場が閉ざされていたのである。しかし、後に八戸支所がスルメイカ・マサバの沿岸重要資源、底魚漁業資源の研究を通じて、関係水研・水試との交流を深め、遅れ馳せながら面目を保つ様になった。
 さて、私達が東北水研設立とともに行ってきた漁況研究手法にしても、その後発展してきた数理学的資源解析にしても、対象生物それ自体の生物学的・生理学的特性が解明されなければ、それ以上の発展は望めない。当時から判らない部分は依然として不明のままであることが多い。近年、進展の目覚ましいバイテク技術の導入など、基礎研究の追求が現状打開の手段になるであろう。
 しかし、水産資源・海洋の研究は、長年に亘る継続性が重要であり、また、魚体測定や乗船調査などルーチン的作業が不可欠でもある。専門化した個々の研究も重要であるが、組織としての協力体制も確立しなければならない。資源研究にとって個人と組織との関係は、常に古くて新しい課題であり、それは昔も今も変わらないのであろう。
 40年前に実践してきた資源調査の一部は、東北水研海洋資源年報カツオ資源・サンマ資源篤として集録されてある。何の素気もないデータの裏に秘められた汗と涙の物語が、歴史の片隅で埋没しようとしているのは残念である。こんな話が今の若い研究者に理解して貰えるのだろうか。温故知新の一助として紐解いて戴ければ、それに過ぐるものはない。
 近代日本黎明期から数えて、水研創立当時の所長方を第2世代とすれば、戦後の水研団塊の世代(大正末〜昭和初年)は第3世代に類別できないか。元号も昭和から平成へと移り、1990年代は第4世代の担当の時代である。3代目は何とやらで、その功罪は歴史に任せるとして、21世紀へ繋ぐこの10年間、第4世代の活躍を期待し、健斗を祈る。
Shigeru Odate

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