所長の一言

佐藤重勝


 東北水研はともかく懐かしい。36年の役人生活のうち病気3年ブラジル2年は出勤していないが、それも含めて26年間在籍していた。獅子ケ崎に獅子の頭の岩があった時からずっと、私の青春時代はそこで燃えつきたと云ってもよい。私は外見ではネアカに振舞っていたが、青年期を戦時中に過ごした者たちに特有の、内側では、やたら真面目、やたら深刻で時々いたく傷ついていた。しかし、その内面の心情を語る余裕があるはずもなかったので、表現は結論だけとなり、特に上役に対しては“棒切れ”のような対応をしていた研究馬鹿であった。それに対する折々の所長の一言は、IPSE DIXIT(鶴の一声)であり、今もはっきり記憶に残っている。多少差障りがあるかもしれないが、当時の私の心象スケッチの意味で書いてみたい。
 初代(故)木村喜之助所長は、私の出身校旧制二高の先輩であった。田舎者の私は、そのため却ってよそよそしく振舞っていた。昭和36年冬のことである。前から手続きを進めていたブラジル行のことも、水産庁から何の返事もなく、2日前には直接上司から「君は推薦しないよ」と云われ、「推薦が必要なら私は行きませんよ」と答えたばかりであった。その日所長室に呼び出されたので、これは「断念せよ」というお達しかと思って所長室に入ってゆくと、所長は「君がブラジルに行くとなったら、組合は文句を云わないかね」とおだやかに言われた。「研究の為に行くのですから、文句を云われる筋はありません」と私は答えた。その時、私はふと「あゝ所長は先輩だったんだ」と思った。裏でいろいろ動きがあったのを知ったのは、それからずっと後のことであった。
 2代目(故)手塚多喜雄所長には、所長在任中はお会いしていない。しかし、ブラジル行の待遇を決める打ち合せをしている時、机ひとつ隔てた課長席からの声が初対面であった。当時外国行の手続きは、水産調整課?(後の研究2課)で扱っていた。当時、研究者はすべて現地着後は休職扱いになる慣例であった。担当の田辺係長は「法律では現職扱いもできることになっているが、慣例では休職扱いになっている。あの有名な笠原さんでもそうだ。君は何か特別扱いされる理由でもあるのかね」と云う。そこで私はかっとなって「帰国後の復職が不安定だとなると、私は行くかどうかもう一度考えさせてもらいます」と言い放った。途端に課長席から声あり、「田辺君、できるのなら有利な方にしてあげなさい」。それが手塚課長であった。そのおかげで私は水産庁はじめての現職長期出張となった。(故)手塚所長とは、10年後の昭和46年にまた似たような経過でお世話になった。直接出席はされなかったが、“さけ・ます資源増殖に関する研究協議会”を資源保護協会主催の形で山田町で開いていただいたことである。これを機に海中飼育放流が軌道に乗り、“溯河性サケマス増殖別枠研究”につながり、その当時1:9位だった日ソのサケマス資源を、(当時私が将来目標として、この会議の報告につけて書送った)5.5:4.5を越える現在の結果になったのである。
 3代目辻田時美所長には、2年のブラジル生活を終えて帰任したと時ご挨拶にうかがった。専門が同じプランクトン学だったので、お互いに論文は交換しあっていたが、この時が初対面であった。帰任の報告をすると「安楽君は私と親しいんですよ。貴方は後輩ですか」といわれた。私はびっくりすると同時に「あ、人間関係渦巻く日本に帰ったんだなあ」という懐かしいような息苦しいような感懐におそわれた。それと同時に2年前の“棒切れ”の自分に立戻って「安楽君は私の後輩です」とぶっきらぼうに答えた。
 4代目(故)佐藤栄所長には、所内の生物学論争の場で多くの御教示をいただいた。そして私も猛烈に勉強していた。佐藤(栄)学派の信者になるのではなく、自分で納得できる産業研究の方法論を得たいと必死であった。いろいろあったような気がするが、やま場の一言というのは記憶していない。
 記憶に残る一言は、昭和44年6月のことであるが、忘れないうちに記録しておきたいと思い、別枠研究さけ・海中飼育放流、昭和52年度報告、東北水研(1978)P,5に記してある。その一部を下に再掲する。
 迷っている私に佐藤所長はこう云われた。“研究上で黒白がつきにくい時は、漁村との関係を考えることだ。漁村に金を落とすのは良いことだ。”これは産業研究の過程で起こる大局観というもので、私の決意に大きな影響を与えた。
 5代目(故)杉本仁弥所長の時は、私も部長になっていたこともあり、“棒切れ”対応ではなかった。しかし4ケ月後、水産庁調査研究部調査官(後の研究部参事官)として行くことになった。従って記憶に残る一言はない。
 (故)杉本所長とは、後に東京で、一緒に仕事もし、酒ものんだ。酒の終は「シゲカツ、オマエを頼りにしていたのに東京に行ってしまうんだものなあ。・・・まあ、いいさ、後を引き受けてくれたんだから」となるのであった。なにしろ当時の水産経済新聞には、真珠研究所長 佐藤重勝と出ていた位であるから、その当時の話になれば何時も終ることはなかった。そして6代目は、私が4年7ケ月つとめた。当然のことながら記憶に残る一言はない。
Shigekatsu Sato

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