不  惑 ?

武藤 清一郎


 「40才」と、云うと古来より云われている「不惑」を思いだします。もっとも最近は人生80才ですから、「40にして惑わず」と云うよりは、人生の折り返し点の感もあります。
 昭和24年に8海区水産研究所の一つとして発足した東北区水産研究所は、今年で40周年を迎えたわけですが、昭和26年に入所以来本年3月まで過ごしてきた私にとっては感慨深いものがあります。
 最初は利用部に勤務しましたが、12年目でやっと仕事がわかりかけてきた矢先の昭和37年に利用部が廃止され、新設の海洋部に移りました。その後、昭和59年から本年3月まで八戸支所に居ましたが、丁度「行政改革」の下で「水研の見直し」に直面し、支所廃止の場面もあり得る状況で在職中2度にわたって、大きな機構改革にぶつかった事になります。結果としては、「海区水研」の維持ということで、八戸支所も存続することになりましたが、数年後の「見直し」には再び問題になります。
 かつての利用部の東海区水産研究所統合が、「海区水研」の総合性に大きな問題を投げかけました。当時、昭和27年(482万トン)には戦前の漁獲水準を超え、昭和47年には1,000万トン台に上昇した「沿岸より沖合・遠洋へ」の日本漁業の外延的拡大の背景の下で遠洋水研設立・開洋丸建造(昭和42年)となっています。その後、10年にして「200海里元年(昭和52年)」となり、日本漁業は大変貌を余儀なくされます。更に10年もたたないうちに前述の「行政改革」の流れと一緒に日本の経済構造の転換は進められ、日本漁業は「買う漁業」と云われる程になりました。今や、世界最大の漁業生産国であると同時に最大の水産物輸入国となりました。この水産物輸入増大は高級魚やグルメ指向の消費者のニーズの変化および円高に支えられているとされ、総合商社や総合食品企業が大きな役割を果しています。安い労賃を求めての食品企業の海外進出は国内の当該産業との対立を海外にまで持ち出す結果ともなっています。ここで、消費者のニーズの実態について良く考えてみなくてはなりません。更に、食糧供給を窒素のフローからみると、高度経済成長以前の大量の食糧輸入のみられなかった昭和35年(窒素換算で輸入は110トン)に比して昭和57年には7倍(732トン)となっており前者における環境の排出(360トン)に比し後者は4倍近く(1,173トン)に達して、環境の自浄作用の及ばない一部は年々蓄積し、窒素のフローバランスを崩しているとも云われています。
 農業(漁業等も含めて)・食糧問題は消費・供給に加えて環境保全も含み国民生活の在り方として大きな問題になっています。農業・食糧基地としての東北には日本経済のみならず国際的な問題も含めてその歪みが反映されていることは多言を要しないと思います。
 40周年を迎えた東北区水産研究所における今後の研究活動が、今までの東北地域に及ぼした成果の上に新たな折り返し点に立って、「農業・食糧」の重要な課題の一部を担って「惑わず」進まれることを切望します。
Sei-ichiro Muto

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