白砂寮のこと

黒田 隆哉


 今年は東北水研創立40周年に当るということで、OBにも水研ニュースヘの投稿依頼がありました。昭和24年6月1日に農林省水産試験場が廃止となり、塩釜には東北区水産研究所が新設されましたが、当時私はそれまで試験場高山研究室(漁撈)におり、その頃は丁度サンマの流し網漁法に替わって火光利用棒受網漁法が盛んになり始めていました。これとは余り関係なく、たまたま田内場長の集魚灯に関する論文を読んで興味を持ち、吉牟田長生さんと一緒に月島の屋上で夜、照明灯の照度を測ったり、また第1旭丸(後に東北水研に配属、後に代船建造に際してわかたか丸となる)で、館山湾で海中の集魚灯の照度分布を測定したりしていました。新庁舎の建設その他いろいろあり、翌25年10月15日付けで他の人達と一緒に東北水研勤務(配置替え)となりました。創立当時の思い出話やエピソードなどは他の方々からもいろいろ紹介されると思いますので、今回は小生は最近個人的な古い資料等を整理・廃棄中に、たまたま見つけた独身寮についての規約とかメモとかを見ながら思いだしたこと等を書いてみたいと思います。
 独身寮は当初東北海区水産研究所独身寮といい、後、昭和26年中に所内公募により白砂寮と命名されました。場所は仙台市の中江あたりに小田原蜂屋敷という集落があって(今の地図には見当りませんが)、当時我々寮員は仙石線の仙台東口駅(今はない)で降りて、電車通り(市電、今はない)(45号線)を横切り、常盤木学園の前を通り、しばらく行くと、周りが比較的田圃や畑の多い中に寮が建っていました。水研庁舎や官舎の新設に奔走された谷井潔利用部長が見付けられたのだと思います。一説によると、ここは元娼家だったということで、寮として開設準備中の頃一度谷井先生(当時、試験場の室長以上の方々は先生と呼ばれており、その習慣からか東北水研でも木村喜之助所長と初代の部長さん方は先生と呼ばれていました。)に連れられて訪れたとき、なにかそのような(物の本で見た)たたずまいを感じました。昭和25年の終り頃、希望者は入寮したと思います。当時の寮員は10名位で、メモには川崎健・奥田泰造・福島信一・小川達・川合英夫・佐藤重勝・梅本滋の各氏の名前が見られます。翌26年1月24日はとんどの寮員が正月休み明けで帰寮したのを機に、第1回寮会が川崎さんを座長に開かれ、寮規の審議が行われました。当時の独身の若者達の考えた規則だけあって、条文には微笑ましいものが見られます。その2,3を挙げますと、第1章総則第3条では、寮の秩序に反しない限り寮員各自の自由を認める。とか第4条では寮員はすべて基本的に平等であって何等差別されることはない。第5条では寮員は寮規に定められた権利を行使することが出来、また寮規を遵守する義務を有する。まとめとして第6条には運営は自治的にこれを行うなどとなっています。また役員(寮長1、委員2)は選挙で選ばれるわけですが、その任期は理由は今思い出せませんが、寮長4ケ月、委員2ケ月で、委員は毎月1名づつ改選されるという忙しいものとなっています。この寮規について当局からは別段の異見もなかったようです。いちばん年長の私が初代寮長となり、川崎さんと梅本さんが委員になりました。その後寮会(決議機関)はしばしば開かれ、食事のこと(お茶のことまで)、入浴のこと(順番やお湯の熱さのことまで)に至るまで、寮の秩序を保ち、運営が円滑にいくようにと活発に討議が行われました。寮規の冒頭にうたった寮員の福利の保障とか、文化生活の向上などに役だったかどうかは定かではありませんが、とにかく無事に運営されていったように思われます。休みの日には気のあった仲間たちと、市電が砂埃りを舞上げて走る電車通りを歩いて、東一番丁の焼け残った、あるいは急ごしらえの商店街をぶらついたり、書店をのぞいたり、また名画を見たりしたものです。その後は夏・秋に海洋資源部(当時)の一員として、清水や石巻の魚市場調査や漁況速報発行などの割当作業で留守をし、年末には塩釜市内の小松崎にあった官舎に、近いうちに所帯を持つという名目で入居し(実際はそれから嫁探し)たので、その後1,2回友人に会うため寮を訪問した程度で縁が切れました。寮は後年改装されて所帯持ちの人たちも住めるようになったようですが、結局この寮はなくなりました。資料を持っていないので、それがいつ頃の事だったかは分かりません。寮の終わりの頃には武藤清一郎さんや菊地省吾さん達が住んでおられたと思います。若い頃経験した寮や下宿や、異郷での少人数の共同生活は甘美な思い出であると同時に、それらの人達との交流は小生にとって稗益するところが非常に大きかったと思っています。なお申し忘れましたが冒頭の東北海区水産研究所というのは、どこでどう間違ってしまったのかよく分かりませんが、とにかくこの名称が公文書にでも何にでも使われ、15年も経ってようやく昭和40年頃に誤りが気付かれ、これ以降は印鑑も何もすべて東北区となりました。それで東北水研研究報告も第24号(昭和39年12月発行)までは東北海区水産研究所研究報告、第25号(昭和40年12月発行)からは東北区水産研究所研究報告となりました。私達の名刺なども同様です。以上念のため。
Ryu-ya Kuroda

目次へ戻る

東北水研日本語ホームページへ戻る