創設の頃

川崎 健


 1949年4月になって、私は東北大学農学部水産学科(旧制)の3年生になった。そろそろ就職のことが話題になる時期だった。私はどこかの水産会社にでも雇ってもらえたら、と漠然と考えていたが、そんなある日畑中正吉先生(当時助教授)が私を呼ばれて「川崎君、農林省水産試験場がこの7月1日から8海区水研に分れ塩釜に東北水研が新設されるのですが、そこに行く気はありませんか。もしその気があれば私から木村喜之助先生にお話しします。ただその為には国家公務員試験に合格してもらわなければなりません。」と言われた。そんなことで公務員試験を受験したところ運よく合格したので、東北水研にお世話になることになった。
 勤務が始まった1950年4月には庁舎がまだ建っていなかったので、ひとまず上京してまだ東海区水研に居られた木村所長の所に伺った。木村先生が「川崎さん、庁舎が建つまでどうしますか」と言われたので、出来たら仙台に居たいと申し上げたら、当時は簡単なもので、「それでは」とおっしゃって、「東北水研仙台臨時試験地勤務を命ずる」という辞令をいただいた。しかし仙台にはあまり居られず、早速宮城水試の調査船大東丸(60トン)に乗って、カツオ釣りと海洋観測をした。この時は22才、若かったものである。
 大東丸には何回も乗った。一度は渡波で乗り遅れて、館山まで追いかけて乗った。おかげでカツオ釣りばかりうまくなった。私が乗るたびによく時化た。当時は天測でしか船位がわからなかったので、台風に直撃されてもみくちゃにされたこともあった。船の人から、「あなたは時化男だからもう乗らないでくれ」と言われもした。
 またこの年には八紘丸という小型底びき船で金華山周辺で連続の海洋観測をした。黒田さんと2人で乗船したが、船は私の方がずっと強かった。当時は捲上機は手巻きで、荒天の中での肉体労働であった。食事のおかずは三度三度玉ねぎの味噌汁だけで、イカを釣ってそれをおかずにした。
 夏になると木村研究室の面々が、漁況記録収集と漁況速報の発行のために、石巻にやってきた。正式には海洋資源部で木村先生が部長を兼任されていたが、旧水産試験場当時の名で皆そう呼んでいた。やって来たのは黒田、福島、小達、川合、小川(故人)、武宮(水講学生)などの諸氏で、門脇の矢野さん宅の一階の広間で雑魚寝をした。朝早起きして入港した漁船を回り(これを船回りと言った)、水温を航跡図にプロットして等温線を引き、漁獲位置を記入する。これを5日に1度「漁況速報」として発行した。当時はガリ切りから印刷、帯封から発送まで全部自分たちでやった。たしか地元の永沼さんも一緒にやっていたように思う。その他に等温線放送というのもやった。等温線の位置を五十音の組合せで示して、それをつないでいくのである。それを無線電信で漁船に報せた。
 船回りにはリュックサックを背負って出かけた。その中には水温計、水色計、航跡図、木村喜之助著「カツオ漁場図集」が入っていた。まず水温を測ってもらうことから始めるのである。そうして上記のものを売る。体のよい行商人である。そうしてアルミの食器で朝から漁師の人と酒を飲んだ。
 それにしても、木村先生の顔の広いのには驚いた。三重県や高知県からカツオ船によくお供をしたが、「木村博士」で通っており、船頭は皆先生の顔見知りであった。「第七盛秋丸」などというのは、懐かしい名前である。
 当時はサンマの解禁日が年によって違っており、解禁日決定のための一斉海洋調査が行われた。乗船のために平野敏行氏などがやって来て、石巻の魚市場の二階で打合せ会が持たれた。サンマ漁の終了後、塩釜の市役所のそばで第1回サンマ会議が行われた。
 こんなことをしているうちに、庁舎や小松崎の宿舎の建設も進行した。東京から谷井潔利用部長や佐野孝氏などが先発隊としてやって来て、塩釜市役所の水産課に陣取って、建設の監督をした。当時は仙台の榴ケ岡の公務員住宅に所長官舎があって留守番に、佐野さんと私と竹内という東北大学法学部の学生の3人で住んでいた。木村先生が若くて美しい喜代子夫人を伴って時折みえて、泊っていかれた。木村先生が47・8才、奥様が31・2才だったと思う。私がご夫妻に囲碁の手ほどきをして、木村先生はその後すっかり病みつきになられた。
 そうこうするうちに年が明けて1951年となり、庁舎が杉ノ入に建ったので、利用部の長倉さん、梅本さん、庶務の藤田さん、佐藤政治さんなどが着任された。プランクトンをみてくれる人を探していたところ、東北大学の先生が小達(当時三塚)和子さんを連れてこられたのもこの頃である。鈴木富子さん、川合(当時和田)宣さん、八百(当時高橋)和子さんなども採用された。3月頃だったと思うが、東京から当時全水産(というのがあった)の活動家であった内山均さんと専従書記であった西村章作さんがやって来て労働組合を作れとハッパをかけられた。会議室に集まって相談したのを覚えているが、ともかくも結成して、メーデーに参加した。
 和田さんや高橋さんが、「晴れた五月の・・・」とか「聞け万国の・・・」とかの歌唱指導をした。私はその後いっぱしの組合活動家となり、「定員化斗争」や「常勤化斗争」で木村所長と渡り合ったのを覚えている。随分失礼なことも申し上げたと思うのだが、それを決して根に持たれず、お宅に招ばれてお酒をいただいたのも、木村先生の度量の大きさであったのだろう。その後私は、全農林宮城県協副委員長や塩釜労評副議長などをやり、中小企業の労組のストライキなどを指導して回った。
 当時仙台の中江蜂屋敷に、白砂寮という水研の独身寮があった。当時は仙台と榴ケ岡の間に仙台駅東口という仙石線の駅があり、仙石線にはグリーン車がついていて米兵とオンリーが乗っていた。この駅から東塩釜まで電車に乗って水研へ通った。駅の付近でパチンコをして酒屋で立ち飲みし、寮でも福島さんや菊地(当時佐藤)省吾さんとよく酒を飲んだ。
 1951年の5月からは焼津に行って陸上調査(当時はそういう言葉があった)、それから乗船と、そのような生活を7・8年したように思う。そんなことで、木村先生門下の漁海況男にすっかりなってしまった。以西トロールの調査にも2カ月行かせてもらった。おかげで、カツオ釣り、小型底びき、サンマ棒受網、イカ釣り、サバ釣り、イワシ巾着網など多くの漁船に乗り、蒼鷹丸やわかたか丸にもたびたび乗船し、水産航空の魚探飛行にも乗るなど、実地の経験をたっぷり積ませていただいた。このことが、その後どんなに役立ったかしれない。
 水研の40年は私が水産研究を始めてからの40年とぴったりと重なる。ここまで書いたところで渡部泰輔さんが送ってくれた5枚の原稿用紙が終わりである。もう止めろということであろう。妄言多謝。
Ken Kawasaki

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