東北水研15年間

川合 英夫


 ふとしたことから東北水研に赴任することになり、15年近くもご厄介になってしまいました。1950年3月、京大での卒業式も未だすまないうちに、月島の旧東海水研内の木村研究室(東北水研事務取扱所)に出頭するよう、指導教官の速水頌一郎先生を通じて、初代所長の木村喜之助先生から連絡がありました。東京に着いて間もなく、東北海区のブロック会議か何かに出席するため、上野から仙台に向かった汽車の窓から見えたものは、寒々とした野山や田畑の連なりばかりで、心細かった印象だけが残っています。
 それから1965年1月に高知にあった旧南海水研に転勤になるまで、途中2年足らずの滞米生活はあったものの、東北水研で過ごした15年間は、私にとっては23才から38才までの青壮年期という大切な時期に当たっています。その前の尋常小学校2年生から大学卒業までの15年間は、戦中から戦後にかけての激動の少青年期であり、その後の15年間は、南海水研・南西水研・日水研から京大へと職場環境や価値観の変革の中年期です。いずれの15年にも、それなりの意味はありますが、特に東北水研での15年間は、かけがえのない体験の連続でした。地域社会、上司・先輩・同僚などとの対人関係、業務環境、研究環境、居住環境のいずれをとっても、良きにつけ悪しきにつけ、こんなに独特な環境には、なかなか遭遇できないことでしょう。
 そして当時は、よりよい研究環境を求めていたことは確かです。そのためには研究業績を挙げねばならぬと思い、研究報告をまとめるように努めました。
 研究課題の選定については、当然のことながら、いろいろな制約がありました。研究費を貰うためもあって、いまどき自分の好きなことばかりを研究できる人は少ないですが、それでも大学には、そういう幸せな人がいるようです。そのようにして優れた研究をされた方々もおられます。しかし、自由であるばかりに、安易なテーマの選択に走る場合も少なくないでしょう。私の場合も、もしも、東北水研にいかなかったならば、決して自から進んで取り上げようとはしなかった研究課題に取り組むことができたことは確かです。そのとき、与えられた研究課題の制約に甘んじて、それに流されるのではなく、その枠内での自由度の許容範囲で、意味のある研究を展開するように工夫したように思います。もちろん、どうしようもなく無意味な調査を強いられたこともありました。しかし、つまらないと思った体験でも、後になって何かに生かさねば、救われないと思っています。“転んでもただは起きぬ”という諺もあることですから。
 一般公務員では定年となる年齢を過ぎたせいか、いささか回顧趣味調、体験美化調、教訓説教調に流れてしまいました。
Hideo Kawai

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