古き想い出

石橋  正


 東北水研は、月島の農林省水産試験場木村研究室が母体となって8海区制分割の時に出来たが、漁具漁法を担当する高山研究室の宮古試験地も東北水研に含まれ、しばらくして八戸に移転し八戸支所となった。

 第1旭丸は、僚船第2旭丸と共に昭和23年千葉県勝浦の旭造船所で、両船共、底引きと延縄の漁撈設備を持つ中型調査船として建造された。
 船名は公募されることもなく、当時の田内森三郎場長が「面倒だから造船所の名前にしておけ」と言われその通りとなったという。(第1旭丸はディーゼルエンジンであったが、第2の方は焼玉機関で、竣工後すぐ香住試験地所属となり日本海で活動した。又デッキにあったラインホーラーはすぐに取り外され、二度と使われることはなかった。トイレも船内になく危険だったので、私が船長となってすぐ新設した。)

 私は昭和21年11月に高山研究室に助手として採用され、間もなく就役した初代鷹丸(当時は常滑丸といい、これも造船所の名前をとったものである。)の初代船長を兼任した。その傍ら、両旭丸の造船監督と乗組員の配乗を担当し忙しい毎日であった。
 第1旭丸の初代船長は蒼鷹丸の一等航海士安西徳松氏、機関長も同船から高橋定男氏が発令されたが、23年9月、東京湾でアメリカ軍の火薬を積んだ船と接触事故があり、船長が退職、突然22才の私が2代目船長として乗船することとなった。
 当時、本船には無線機と称するものは、旧陸軍で使った怪しげな機戒が積んであり、不思議な事に電鍵もなく、そのうえ誰もその使い方を知らず、専らラジオ放送を聞くことだけに使われていた。そして昭和24年銚子沖でエンジンが止まって流された時、私は2本の鉄火箸に電線をつなぎ、マストにワイヤーを張ってSOSを発信したのであった。
 その後、無線機を新しく備えることになり、通信長の定員増が必要となった。そして船員の定数増の会議が開かれたが、その席で私と口論した日本海区香住の山本支所長は翌朝、急逝されてしまった。(間もなく初代通信長城田喜一氏が採用となった。)
 私のあと、気象庁から本田船長が来たが、その後の田村・佐々木両船長共、はじめて本船に乗って来た時は18才の紅顔の美少年であった。

 終戦直後の粗悪な材料で作られた本船を長い間、使うことが出来たのは、全く当時の真面目な乗組員一同のおかげである。当時、水研の船で稼働日数の最も多かったのは本船で、その上底曳網という長大な重漁具を曳くので労働量も危険も多かった。又今でも信じられないのは「収入予算」を課せられ、相当額の水揚げをする為に、調査も何も行わず数カ月間、小樽に派遣されたことがあった。(この強行された航海で青木甲板員を事故死させた。)八戸支所が遠くその運営も独立していたためか、例えばボーナスのプラス・アルファが船員だけにでないという今では考えられない様な事も起きた。(船員は食卓料が出ていて優遇されているから支給する必要はないのだという当時の支所長の考えだったのだが、結局、こんなトラブルが私と支所長との対立を深め、私は水研で最も若い船長として羨望の目で見られる立場を振り切って、それこそ本当に辞表を叩きつけてしまうまでに追い込まれてしまった。ただこの辺の真相は、お世話になった木村所長には申しあげず、私は黙って水研を去った。)

 組合はまだそれほどの力はなく、結局は船長が乗組員の利益代表となったわけだが、22才で船長になった男に何が出来よう。私は乗組員達には随分、損な思いをさせてしまい、今でもそのことを申し訳なく思っている。
 共産系の職員が船に来て「船長が個室にいてのんびりしているのはけしからん。船のベットはくじ引きで決めるべきだ」とアジった時も、東京から八戸に船が転属になる時「乗組員全員で反対すれば東京に在籍できるのだ」と説得に来たときも、誰も反応を示さなかった。そして、私と一緒に長い間、北の海での辛い仕事に従事してくれたのであった。

 塩釜の開所式の前日、八戸から回航して来たが当日、展示する為に積んできたカレイが死んでしまった。私は乗組員と共に大きな引き網を担いでハイヤーを雇い(勿論自費で)閖上港までカレイを獲りに行った。一生懸命、名取川の河口で網を引いたが魚は入らず、又、支所長に相当叱られてしまった。
 開所式は盛大であったが、調査船某丸の乗組員が酔ってひどかったので、私は早めに全員に酒・サカナを沢山持たせて船に帰ってしまった。
 あの時、配られたカツオのコケシはおそらく木村先生の発案であったと思うが、まだ大切にとってある。

 木村先生はいい人であった。月島時代から存じ上げていたが、暮の演芸会ではドイツ歌曲を堂々と歌われる方でもあった。
 塩釜に転勤されてから、入港すると「君、疲れているだろう」といって自宅に呼ばれ、柔らかい布団の上で休ませてくれた。又、応接間にあったピアノを夜更けまで弾いても何とも言われなかった。
 病身のご母堂が居られたが、先生は実にやさしく看病されていた。又、奥さんもいい人で家の中も整然としており、私のような者に出される食器やデザートにも高いマナーの気配りをされる方であった。
 その木村先生が石巻で、観測器材を積み終わり、当時、駐在員の宿舎になっていた矢野さんの家に戻るとき、カラになったリヤカーに乗せろと言われたのである。意外であった。東北水研の所長が、真昼の町をリヤカーに乗って我々と冗談を云いながら行くのである。我々乗組員がその後、どの位先生に親しみを覚え尊敬したか。私は塩釜に入港するのが楽しみであった。

 東北水研ができて40年とか、全く早いものである。そして私の知っている方は殆ど在職されていない。しかし、私は自分の大切な青春時代を捧げて苦斗した第1旭丸の時代を忘れることは出来ない。
 若い、明るい乗組員と共に暮らしたあの頃のことは、珠玉のような想い出となって私の心の中に消える事はない。


Tadashi Ishibashi

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