思い出の情景

篠岡久夫


 創立40周年、不感の東北水研が出来したわけであります。おめでとうございます。
 私が東北水研にあったのは、昭和60年3月31日にいたる所長としての満3カ年だけです。40年の歴史に対して、たかだか7分5厘しか寄与していない、語ることの少ない立場であります。
 事実、その1千余日の間のことごとは、時事としてはそれなりの意義を持っていたにしても、それ以上に歴史に記されるほどの重みのあることであったとはいえないと思われます。
 これらのことどもは、しかしながら、私の体験としては忘れがたく貴重であって、折にふれて思い起こされます。思い出の情景は、なぜか、東北水研にこそ多いのであります。
 あの花見が、塩釜なる東北水研の風土に滋味を覚えたはじめでありました。本格的に着任して間もない4月19日でしたかの薄暮から催された神社境内での観桜の宴です。伊勢からの赴任と東京での会議に伴って東行と西行をくり返した4月上旬の慌ただしい日程からやっと解放された頃合が幸いして、陶酔のうちに東北水研生粋の人士たちとはじめて心地よく語り合いました。このくつろいだ春の夜に感じえた思いをその後ずっと何にもまして大切にしました。
 大韓民国の航空機が遭難墜落したあのとき、海没しているであろう遺物の探索を、わかたか丸がたんたんと気合いよくうべなってくれました。遅速のその船が単船で小樽、稚内をへて紋別へとかいがいしく進出してゆく。地味に徹してひたむきに挺身するわかたか丸の真情をひしひしと感じました。
 あれは、その後どのようになっているであろうかと気がかりになる事柄として思い出されます。
 烏がやたらに多く住み着いていたことと時としては汚臭にさいなまれていたことは、水産加工団地に接してその奥に構えられた東北水研としては、耐えがたく耐えざるを得ないことでありました。一層大変であったのは、研究所のある岡にとりつく団地部分の地面沈下でした。排水が停滞し、降雨があるとじきに水面化して、研究所を孤立させました。ゴム長靴でなければ徒渉できないまでにです。松島湾に臨んで景勝を占めているとみられる東北水研ですが、その反面ではこのような環境被害にもさらされていたのであります。そして、それは私の力では殆ど善処しかねる難儀な事態でもありました。
 知命の東北水研に向けて、独自の持ち味をさらに洗練して歪みのない進展をはかられるよう念じております。不惑であるといえども孤高であってはならないと思います。
Hisao Sasaoka

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