第20回を経過したサンマで始まった日ソ協同研究会議の足跡

小坂 淳



 昨年11月に東京で開催された日ソ漁業専門家・科学者会議はサンマ・マサバ・マイワシ等の第20回協同研究会議の性格を有していた。日ソ間の漁業の分野における科学技術協力は最近やや複雑な様相をみせてはいるが、1968年に開始された「日ソ科学技術協力協定」に基づくサンマ協同研究会議が回を重ね拡大発展し、20回を経過したことは意義深いことである。これを機会にこの協同研究会議の経過をたどり、今後の協力のあり方を検討することは重要であると考える。

1)戦後の日ソ間の漁業関係の再開から「日ソ漁業科学技術協定」の成立まで(1956〜1967年)

 戦後における日本とソ連との間の漁業関係は、1950年代に北西太平洋において日本のサケ・マス・漁業が操業を開始したことを契機として、両国間の漁業に関する条約締結の気運がもりあがり、1956年12月の国交正常化と同時に「北西太平洋の公海における漁業に関する日本国とソヴィエト社会主義国連邦との間の条約」が発効することによって始まったと云える。その後1958年からサケ・マスの日ソ間の共同調査が開始され、両国の科学者の交流が盛んになり、調査の充実と相互理解が深まった。このことや双方の沖合における漁業の発展を背景に日ソ間の漁業に関する科学技術協力についての関心が高まり、1965年5月の赤城農林大臣の訪ソの際にその協定について原則的に合意がなされ、1966年6月のイシコフ漁業大臣の来日の際に「日ソ漁業科学技術協力協定」の交渉が行われ、翌1967年7月に同協定が発効した。その間1966年8月5日に両国は「1966年の漁業に関する日ソ間の科学技術協力計画」について口上書を交換し協力が実現されることになり、10月15日から12月4日まで、ソ連サンマ調査船ペラミダ号に日本側から4名が乗船した。これがサンマ資源に関する調査研究の具体的な日ソ間の協力関係の始まりで、その後の発展の礎となった。

2)「日ソ漁業科学技術協力協定」に基づく第1〜10回協同研究会議(1968〜1977年)

 「日ソ漁業科学技術協力協定」に基づく第1回サンマ協同研究会議は1968年9月11日〜16日にサンマ漁場においてソ連の工船“パーベル・チェヴォトニャーギン”号で開催され、日本側から4名、ソ連側から6名が参加した。会議では北西太平洋において双方が実施しているサンマ調査についての情報交換、サンマの資源状態及び漁獲状況についての情報交換、さらにはサンマ協同調査の範囲、技術的可能性、データの交換等について意見交換が行われた。会議における論議を通じて双方の見解が一致した点は(1)北太平洋におけるサンマは3つの大きなグループがあること、(2)サンマは生活史が短く、自然死亡率も高いが、再生産のテンポが速く、且つ索餌・産卵水域も広く、従って漁獲量も多いと考えられること、(3)1964年以降のサンマの漁獲量は1958年〜1962年に比べ約半分であること、(4)150°E以西のサンマについては回遊その他の生物学的特性についてよく知られていること、しかし(5)150〜160°Eにおけるサンマは調査が充分行われていないため判らないことが多いが、産業的には興味が大いにもてること、さらには(6)産卵水域における繁殖状態、ポピュレーションの豊凶状態、数量動態等については研究を深めなければならないこと、(7)年齢に関する問題はこれまでの研究ではあまり良く判っていないことなどであった。これらのうち早期に解明を要する問題について、1969年から協同調査を始めることになった。調査内容としては 150〜160°E間におけるサンマの回遊、魚群形成、体長・体重組成等の生物学的調査とした。具体的な調査方法については時期、期間、定線、観測点、ネット採集方法、サンプルの分析方法など8項目にわたり、双方の意向を尊重しつつもできるだけ統一し、協同の成果があがるよう努力することとした。得られたデータについての交換方法についても取り決めが行われた。また協同の研究課題として新しいサンマの年齢査定法をつくることとした。このようにして第1回サンマ協同研究会議では、それまでのサンマに関する研究の到達点を明らかにし、今後重点的に解明を必要とする問題については協同調査研究を実施することによって具体的に解決を図ることが確認できた。この会議は以後の日ソのサンマ資源に関する協同研究の基本的方向を決定づける重要なものとなった。
 1969年11月東京で開催された第2回日ソサンマ協同研究会議では(1)1969年に北西太平洋で両国が行ったサンマ協同調査研究に関する経過報告、(2)北西太平洋におけるサンマの資源状態ならびに再生産についての意見交換、(3)1970年の北西太平洋におけるサンマの協同調査研究の方向について、(4)1971年の資料交換について、(5)議事内容の整理といった議題についての意見交換が行われた。会議においてはサンマ資源の減少が再生産状況の悪化によったものとした点で、日ソ間で意見の一致をみた。しかし、年齢とポピュレーション構造に関しては意見が一致せず、この問題の重要性を双方で認めたことが特徴的であった。
 ナホトカで開催された第3回会議では定型化した(1)〜(5)の議題の他に、北西太平洋のサンマ資源が相対的に減少したため北東太平洋のサンマ資源の協同調査実施の可能性を検討し、日ソ双方は共に調査を国別で行い、その調査結果を会議において報告することとした。調査結果は第4回〜第6回会議で報告され、北西太平洋以外のサンマについての知見が豊富になった。
 第4回から第5回会議にかけ報告内容が次第に充実し、論議も深められるようになった。1973年の第6回会議においては、ソ連側からサンマ稚仔魚の分布量に基づく資源量の算定方法について提案があり、この問題について両国でさらに検討することで双方の意見が一致した。双方の報告はより研究発表的傾向が強くなり、また協同調査及び資料交換に関しても有意義な提案がなされ合意された。
 第7回及び第8回会議ではさらにサンマの発生初期の死亡率とその環境要因、餌料プランクトン、魚群の構造・分布・移動等についての多くの研究発表と意見交換があった。特に第8回サンマ協同研究会議は東北水研の所在する塩釜市で開催され、日本のサンマ研究者8名及びプランクトン研究者1名とソ連のサンマ研究者3名が参加することができ、双方の研究内容の理解が一層深められた。同会議ではまた共同出版について討議され、日本側論文4編がチンローの研究報告イズベスチャに、ソ連側論文3編が東北水研研報に掲載されることになり、その後実現をみた。
 1976年第9回会議からサンマの他にマサバが魚種として加わり、サバ資源研究の概要と協同調査の将来について意見交換が行われ、協力の枠が広がり発展への期待が大きくふくらんだ。
 しかし、1977年には前年の米国、EC等に引き続いてソ連及び日本が200海里水域を設定し、これにともない日ソ・ソ日漁業暫定協定が締結され、この年の調査は双方が相手国の200海里水域内において実施できない事態となった。その影響で第10回サンマ及びマサバ協同研究会議は参加する予定のソ連側代表の来日が遅れ、例年秋に開催されていたが2月に延期となった。会議は通常の議題に基づいて議事が順調に進められ、次回には懸案のサンマの年齢をテーマに報告を準備することになり、マサバについては漁獲物の変動、産卵と補給及び魚群分布条件を共通の研究目標とすることになった。

3)「日ソ漁業協力協定(旧)」に基づく第11〜17回協同研究会議(1978〜1984年)

 200海里体制に入って漁業の分野における協力が「日ソ漁業科学技術協力協定」から「日ソ漁業協力協定」へとその基盤が変わり、協定文の冒頭の表現が漁業資源の合理的利用から最適利用へと変化したが、1978年の実際の第11回サンマ及びマサバ協同研究会議は基本的に従来どおりの形でナホトカにおいて開催された。サンマに関しては日ソ双方から例年の報告の他に年齢・成長について研究発表があり、日本側から中・小型魚が0+、大型魚がI+という新しいサンマの年齢についての見解が示され、活発に論議された。一方マサバについては生物学的特性、資源計算の方法論、再生産について報告があった。第12回会議は再び塩釜市で開催されたが、前回とは異なり200海里体制の下での諸般の事情が微妙に会議に反映した。
 1989年の第13回会議からは協同研究対象魚種としてマイワシが加わり日ソ間の協力が一層拡大の方向に進んだ。会議における議題は(1)協同調査水域におけるサンマの生物学的調査、(2)サンマの再生産に関する調査研究、(3)サンマの漁況に関する報告、(4)サンマの生態・環境に関する研究報告、(5)マサバの漁況に関する報告、(6)マサバの再生産に関する報告及び(7)マイワシに関する報告であった。サンマの研究発表として日本側から資源評価に係わる「年齢・成長と資源の動態との関連について」と「漁獲量の変動と生き残りの問題」、ソ連側からは資源量及び漁獲許容量の決定に重要な意義を有する「年齢と年齢組成」の問題についてそれぞれ報告した。ソ連側の年齢に関する報告は第11回会議において用いていた漁獲組成の型別相関法にかわってウロコによる「成長線図式」法による分析の結果であった。マサバについては日ソ双方から再生産状況に基づく資源量の推定が、マイワシについては日本側から太平洋系群の生物学的特性、ソ連側から索餌期の分布回遊が報告された。また、新たに議題として各魚種の資源状態に関する討論が加わり、討議されたことは注目される変化で、これは200海里体制の定着化と関連するものであった。第14回会議には資源状態の討論の際に日ソ双方からサンマ・マサバ及びマイワシの各々資源評価について報告があり討議された。ソ連側のサブリンの報告は、資源状態に関して日本側の見解と一致すると述べただけでなく、年齢に関する研究においても日本の見解と一致する結果となったと述べ、それについては次回報告するとした。しかしながら、その後の会議では、その報告がないまま今日に至っている。マイワシに関してソ連側から初めて音響学的方法による資源評価が報告された。第15回会議では、サンマの議題から研究報告がなくなり、かわりに資源評価が正式議題となった。その背景には、この年の4月に国連の海洋法条約が採択され、いよいよ新しい海洋秩序が成立するという情勢があった。サンマについての資源評価は日ソ間でほぼ一致したが、マサバ及びマイワシについては評価の対象にT年魚をいれるか否かといった差異などがあり見解が食違っていた。
 1983年の第16回サンマ、マサバ及びマイワシ協同研究会議は八戸市で開催され、この時から日本海マイワシが加わった。これとは別にスケソウダラに関する初めての協同研究会議がハバロフスクで開催された。第17回の協同研究会議では前年に分かれていたサンマ、マサバ及びマイワシとスケトウダラを一緒にした会議がハバロフスクで開催された。第16回及び第17回会議とも内容的には第15回会議と基本的には同じで、それまでと同様に相互理解と相互信頼及び友好のもとで行われた。

4)「日ソ漁業協力協定(新)」に基づく第18〜20回協同研究会議(1986〜1988年)

 ソ連は1984年2月28日に経済水域に関する最高幹部会令を公布し、これまでの「日ソ漁業協力協定(旧)の見直しを日本側に求めてきた。第1回の協議が5月にモスクワで行われ、第2回協議の準備が進められていたところ6月下旬にソ連が突然1984年末をもって同協定を終了すると通告してきた。その後約1年にわたって数次の交渉の結果、新たな「日ソ漁業協力協定(新)が締結され1985年5月13日に効力が発生した。この協定には“漁業の分野における科学技術協力の促進に関して相互に関心を有し、北西太平洋の生物資源の保存、再生産、最適利用及び管理のための漁業の分野における科学的調査の重要性を留意し、漁業の分野における互恵的協力を発展させる”事が明記されており、日ソ間の漁業分野の協力が新たな段階に進展した。
 この協定の交渉経過のため1985年の従来の協同研究会議は開催が見送られた。それとは別に日ソ政府間協定に基づく1985年科学技術協力計画による日ソ漁業専門家・科学者会議が1985年9月にナホトカで開催された。この会議では協同調査の経過と科学技術協力の将来方向についての協議、第18回協同研究会議の開催の打ち合わせ等が行われた。
 1986年10月に東京湾内に停泊中の開洋丸で開催された第18回の協同研究会議は前年のスケトウダラに代わってイカが加わったというだけでなく日ソ漁業関係の新段階に対応して性格が変化した。すなわちこの会議は新しい「日ソ漁業協力協定」に基づいて1986年5月に開催された日ソ漁業合同委員会第2回会議の「1986年日ソ科学技術協力計画」に定められた日ソ専門家・科学者会議で、旧「日ソ漁業協力協定」及びその前の「日ソ漁業科学技術協力協定」に根拠をもっていた第17回までの協同研究会議とは異なり、サケ・マスの討議が加わり、将来の協力計画の討議も加わった。そのため会議はこれまでと形式が変わり、本会議と従来の協同研究会議に対応するサンマ、マサバ、マイワシ及びイカの分科会とサケ・マスの分科会が設けられたが、充分な研究論議ができなかった。本会議では、この年が戦後の日ソ漁業関係が1956年に公式に発足してから30年を経過した年ということで記念行事が催され、日ソ双方から講演が行われた。会議を通じては、30年の記念行事という友好的な面と協同研究会議の趣が変わった面とが複雑に交錯していた印象が強かった。
 ナホトカで開催された第19回協同研究会議は前回に引続き日ソ漁業合同委員会第7回会議の協力計画に基づく専門家・科学者会議であると同時に、新たにまた1984年に締結された「日ソ漁業地先沖合協定」による日ソ漁業委員会第3回会議の取決めに基づく専門家・科学者会議でもあるという、従って二つの協定に根拠をもつ同時開催の会議となった。「日ソ漁業地先沖合協定」の第5条には“日ソ両国の水域に存在する生物資源の保存及び最適利用について協力する”とあり、この問題も討議の対象となり会議の性格が複雑になった。会議の運営の不慣れもあって時間が不足し、前回同様に研究論議はほとんどできない状態であった。
 昨年11月に東京で開催された専門家・科学者会議では、第20回協同研究会議に相当する分科会の冒頭でソ連側代表からサンマ、マサバ及びマイワシに関する日ソの協同研究の20年を記念したチンロー研究者から東北水研と東海水研へ当てたメッセージが読上げられ、手渡された。ソ連側のこうした意気込みからして、この協同研究会議が日ソ漁業関係に果たしてきた役割が大きかったと推察される。分科会ではイカ、スケトウダラ及びニシンに関する報告もあって対象魚種が広がったが、会議の進行が比較的スムーズに運ばれ、討議を通じてソ連の漁業の状況について新しい情報を得ることができた。本会議ではベーリング及びオホーツクの公海問題で白熱した論議があった。
 東京での専門家・科学者会議に先立って、10月にナホトカで同会議と同じ漁業合同委員会の科学技術協力計画に基づく“黒潮水域の魚類プランクトンの採集及び処理の方法”に関する日ソのシンポジュウムが開催され、双方から併せて16の報告があり、初期の頃の協同研究会議と同様に研究論議と研究を発展させるための調査手法の検討が充分に行われ極めて有意義であった。今後はこのシンポジュウムの研究会議を、科学技術協力計画の中における専門家・科学者会議と車の両輪的存在にする方向で努力する必要があると考える。
 以上、戦後の日ソ間の漁業関係の再開から、1968年にサンマで始まった協同研究会議の第20回までの経過の足跡の概要をみてきた。協同研究会議の歴史は歴史は漁業をめぐる国際情勢の変化に対応しながら、節目をつけ対象魚種を増やすなどして発展的に展開され、重要な役割を担ってきた。
 近年、日本漁業は北東太平洋から絞出され、その他の海域においても厳しい状況にあって、隣国であるソ連とは同じ北西太平洋を中心に漁業生産高を共に増加させ世界における第1位、第2位の位置を占めてきた。このような状況のもとで日本漁業の発展を図るには、ソ連との互恵的協力関係が不可欠であり、20回に亘る協同研究会議の歴史が示したような日ソ間の漁業の分野の科学技術協力を今後も充実させる必要がある。

(資源管理部浮魚資源第1研究室長)

Sunao Kosaka

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