水研に思うこと

浅野昌充



 「故郷は遠くにありて想うもの」とは、都会から地方へその居を移した私のような江戸っ子にもあてはまるようである。先日、東京で会議があり、久々に朝のラッシュにのまれた。去年の春まで通学に利用していた丸の内線にすし詰めになって「ああ、なつかしい」とは思ったものの、あの非人間的な窮屈さと濃密な人いきれに閉口している自分を見い出すにさほど時間は要しなかった。東京は便利であるし、文化レベルも抜群に高いけれども、その喧騒の中にまぎれて自分を見失ってしまいかねない面も多分に兼ね備えているような気がする。それはそれとして、私は課程博士を終え去年4月にこの東北水研へ入所したのであるが、その目的は何にもまして「現場に隣接した問題を扱ってみたい」これであった。「行動の神経機構」の看板を掲げて、学部時代から進めてきた「魚類の電気感覚」についての研究も、対象としたナマズがその感覚系を自らの夜行性行動において捕食活動の視覚に代わるものとして役立てているという結論を得るとともにほぼ終息し、新たなテーマを開拓すべき折のよい時期に来ていたことが、このような考えを持つことに大きく作用していたと思われる。所謂「研究の最前線」から一歩立ち止まっていささか冷静に思いをめぐらせてみると、純粋なる趣味の問題へと傾く傾向にある大学の研究のあり方に一沫の疑問を持つに至り、そしてその根本的な要因が大学研究が現場から遊離したことにあると考えをもつようになったのである。
 実際、大学のレベルの研究成果が現場の技術へ反映しているかというと、そうでもない。というより、高度に否定的な答えを出さざるを得ない。その主たる原因は、それら研究のルーツを辿ってみるならば現場の問題から始まったのであろうけれども、いつしかそのルーツを正面に据えることを忘れてしまったからに他ならない。要するに、技術化しようにもするだけのものを提出してくれない、というのが実情と考えてよいだろう。それ故に、現場の試験研究はその基盤も、指針も持たぬままに賭にも似た直接的なノウ・ハウ比べに低迷している。一部から金の無駄遣いとの声がささやかれるのも、ここにある。そもそも技術とは客観的法則の意識的適用であるから、技術開発を望むならば対象の法則性をまず把握しなければならないことは云うまでもない。水産有用生物の増殖を望むならばそれを含む生態系全体を射程に入れて、その展開を解明しなければならないわけである。特定種だけを取り上げてその増減だけを調べてもあまりよい成果はあがるまい。特定種は特定種だけで生息しているわけではないというのが客観的法則性だからである。
 このような現場を正面に据えた、技術化を目指したレベルの法則性を究明していくことが水産研究所の使命であると考えている。そしてそれが直接に私の目的でもある。
 水研に入所して1年、いくつかの現場を見て回り、次第に水産の現状が見えてきたように思う。機会を与えて下さった小金沢部長、菊地室長にここで謝意を表したい。
増殖部魚介類研究室研究員

Masamitsu Asano
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