君はアメリカを見たか パート1

平井光行


 昭和60年3月1日から12月31日まで米国フロリダ州マイアミのマイアミ大学海洋研究所に滞在する機会を得ました。科学技術庁の宇宙開発関係在外研究員として,10か月間“可視域リモートセンシングを用いた海洋生産力に関する研究”をブラウン博士とともに行ないました。この紙面をお借りして,留学の機会を与えていただいた科学技術庁・農林水産技術会議・水産庁研究部関係者各位,また,精神・物質の両面で支えていただいた本所海洋部諸兄に心よりお礼を申し上げます。出発前の忙殺,不安,期待も過ぎてしまえば一生に一回の思い出として,深く心に刻み込まれています。日記帳と断片的な記憶に基づいて約10か月の短い間の心の内の一部を勝手きままに綴らせていただきます。
 タイムマシンに乗り込む前に,10か月という期間があまりにも短いこと,為替相場が生活に大きく影響したこと,自分自身のポリシーが重要であることを後輩諸氏に伝えたいと思います。
 前年の2月に渡航が決定し,出発までの約1年間は正直に言って落ち着かない毎日でした。手紙だけで先方とやりとりをしていると月に一回がせきのやまです。低いアンテナから得られるマイアミという処女地に関する情報は白砂のマイアミビーチのイメージから一転してあまり良くありませんでした。キュウバンレフィブノィー,エイズ,ミッシングチルドレンなどのニュースは,もちまえの“鉄砲玉の美学”をもってしても,家族の同行について,幾度となく再考を余儀なくされました。十人十色とはよくいったもので,諸先輩の御意見はことごとく異なっていました。それが却って自分の決断を明確にする引き金となりました。揺れる気持ちを押さえるためには早く塩釜を離れたいという思いがなつかしく思えてなりません。
 飛行機に搭乗すると新たな恐怖が待っていました。出発の日が丁度満一歳の長男は目に入る全ての物が興味の対象です。積み上げた旅行訓練も功を奏せず,早々と機内の大運動会を挙行しました。13時間もあるニューヨークまでの機内で英語での初対面の挨拶を考えておこうという思惑は脆くも崩れました。彼が遊びつかれて寝入った頃には我々は既に日付変更線を越えていました。すやすやと眠る彼のやさしい顔を見ていると,いつのまにか我々も夢の中に落ち込んでいました。ニューヨーク空港での簡単な入国審査,税関検査はフリーパスでクリアーしましたが,接続便へ荷物を預ける手続きがよくわからず,最初の英語の壁を感じました。ニョーヨークからマイアミへむかう旅はジェット・ラグとの戦いでした。眠いのに行楽客で超満員の機内で眠れない長男は大泣きの繰り返しでした。妻が慌てず騒がずそっと抱いて乳を与える姿を見て,母は強しを痛感しました。夕刻でもなま暖かいマイアミで迎えてくれたスティーブ氏は最初の友人でありその後の最良の枢密院でありました。
 その日から我々の生活が始まりました。万国共通ですが,お金さえあれば衣食住には困りません。少なくとも我々が客であるときは英語の障壁があっても相手がそれを取り除かなければ商談が成立しません。従って,要求さえ明確で時間が十分にあれば問題はなんとか解決できると思います。ここまでは今までの旅と別に変わるものではありませんが,今回は旅行ではなく生活をするのだという実感はすぐに現われました。家探し・草深しは現地の人の協力なしでは不可能に近いようです。それは契約を結ぶ場合にはどうしてもそこの社会の常識が必要だからです。車についてはスティーブ氏,家については大学の人に協力をお願いしました。ほんの一握りの経験で一般論を語ることはできないのであえて経験からという限定をつけると,お願いすると期待以上の協力を得られるが,なにも言わないと協力を期待することは難しいようです。これが生活をはじめてからのカルチャーショック第一号でした。
 大学での環境は充分満足のできるものでした。日本でも同じですが,水研のような研究機関と大学ではおのずから性格を異にします。新しい環境で新しい人と出会い,新しい人の新しい考え方に接する機会を得たことは大きな収穫だったと思います。最も驚き,感心したのは,仕事に関する分業性・合理性です。プライベートについては個人差が大きく,我々の社会と同じです。その分業性・合理性は末端の研究室にまで及んでいて,たとえば私の所属した海洋物理のリモートセンシンググループには,3人の助教授のもとに約10人で構成されるシステムプランナー,ソフトウェアースペシャリスト,オペレーター,ドラフターがいました。それぞれ役割が助教投の指導のもとで効率よく決められ,2週間に1回のミーティングを通してその分業システムが研究室としての生産性を高めているようでした。このシステムはコンピューターの普及をなくしては語れません。たまたま大学を訪問された日本の情報工学の専門家によれば,マシンは特に優れているとは言えないが,ソフトウェアーの面では実に進んでいるということでした。あまりこの分野に明るくない私が感心したのは,民間の会社では勿論でしょうが,大学や研究機関の情報のネットワークが電話とコンピュータで張りめぐらされている点です。同様の研究をしている東海岸のマイアミと西海岸のカリフォルニアの間でコンピュータを介して瞬時に多量の情報を交換できます。このような分業システムが直ちに日本の土壌に適合するかどうかはまだ疑問の残るところです。
 生活に少し慣れた頃,ふと,今回の渡米の目的を整理しようと思い立ちました。その時に重要なのは,目的の重要性の順序です。

 留学をするということ自体が目的,つまり,無事に帰国することが最大の目的
 英会話ができるようになること,そのためには積極的な姿勢が大切
 進む道を考えること,将来につながることをすること
 人とよく話し人脈を作ること,出会いを大切に
 まとまった仕事をすること,ゆっくり考えること

 それぞれの目的に対する満足度は時間とともに変化します。満足度のスレショウルドは時間とともに高くなります。たとえば,生活を始めた頃は街のスーパーで欲しい物が買えたことだけでも嬉しいが,慣れてくると同じ品物でも品質がよく安い店を知らなければ満足できなくなってきます。このような目的のもとに10か月近く生活するなかで,最も頻繁に行なった反省,感じた教訓は,思ったこと,考えていることを,今実行するために全力を投じなければならないということです。特に外国語の壁の存在によって,ためらいを強いられることが多い私にとってはこのことが重要かつ必須でした。
 視野を広くするという観点から,旅行をできる限り多くしました。そのなかで最も印象に残っているうちの一つは,9月に訪問したマサチューセッツ州のウッズホールです。海洋研究のメッカの一つのウッズホール海洋研究所を見学したあと,すぐ向いのNOAAのNortheast Fisheries Center を訪問しました。ここは名前から察せられるように我が東北水研と最も近い関係にある国立の研究所です。そこで私の目を魅了ししたのは,YEAR OF THE OCEANというどでかい看板でした。これは水研とは少し違うぞと,直ちにここが好きになりました。水研と同じ研究機関でありながら,一般向けの普及広報にもかなりのエネルギーを注いでいるという点に興味を持ちました。施設自体は別にたいしたものではありませんが,子供向けの小さな水族館があり,さらに毎洋科学の基礎知識を教育的に展示・解説しているコーナーがありました。何も水研が子供向けの水族館をもつことがよいという気持ちは毛頭ありません。そんな予算があればもっと研究費をという声がすぐそばから聞こえてくるようです。どんな形がよいかはすぐに答えを出すことはできないが,パブリックサービスを考えてゆくことも重要だと思いました。
 高い家賃を出して庭付きの一軒家を借りてよかったと思います。広い庭ではバナナ,グレープフルーツ,ココナッツ,マンゴー,アボガドなどの亜熱帯の果実や鳥獣の訪問を楽しむことができました。我々を困らせた信じられないほど生長の早い芝生と,はらってもしつこくついてくる蚊の群れも庭の財産でした。笑い話ですが,まさかマイアミでメイド イン ジャパンの蚊取り線香を愛用するとは思ってもみませんでした。自然の恵みに加えて,よき隣人にも恵まれました。6才を頭に6人の子供を支えた共働きの若夫婦,平安〜鎌倉時代の絵画の本を持参してしつこく尋ねる知的おばさん,我が長男の顔を見たいと遊びにくる姉妹,笑顔と挨拶英語だけで会話を楽しんだ美人のスパニッシュ等が我が家の隣人たちでした。でも絶対に忘れられないのは,89才で独り暮らしのリリーおばあちゃんです。脚が弱く,耳が遠い独り暮らしの老女といえば,すぐに暗いイメージが連想されそうですが,それが我々よりもずっと若いのです。ハローウィンの時には朝から張り切ってドーナッツを30個も作り夜の子供の訪問に備え,思ったほど訪問者が釆ないと蚊の多い玄関に腰掛けて待っているほどでした。このことはその夜に我々が2回も彼女の家に訪問してわかったことでした。彼女は我々のよき友人であると同時に友人の輪を広げてくれました。私の最も尊敬する彼女の長男一家,私の妻の一番の友人である孫娘,それに我が長男の一の子分であるひ孫くん等とは家族同様に付き合うことができました。おかげで,マイアミ在住の4世代のアメリカ人を知ることができました。リリーおばあちゃんに感謝の気持ちでいっぱいです。
 別れる時はいつかは必ず来るものですが,やはり悲しいことです。マイアミを去る日が近づくとにわかに忙しくなりました。10・11月の週末は週に1度の来客の繰り返しで,楽しいが正直いって疲れました。それに拍車をかけたのが12月10日の私のセミナーと生活関連の契約解除・生活品の売却でした。忙しいなかでセミナーを終えることができた充実感とムービングセールを行なった楽しさは格別でした。いよいよ最後の別れとなると多くの人にサンキュウを綻り返すしか言葉がでてきませんでした。多分素性の知れない異邦人が来て何かをやっていたという印象の人が大多数であるなかで,ほんの10か月の滞在の我々の別れに際して涙を流してくれた友人がいたことは至上の喜びであり,大満足です。大学の友人であり,車とフットボールのゲームに関して私の先生であり,安月給で子供を養っている若き研究者であるライナーくんの奥様と私の妻が肩を抱き合って涙を流していました。別れの言葉をいうためにわざわざ1時間半もかけて来てくれたスティーブー家と玄関で再会を約束する熱い握手を交していると,長男が大きなおならで笑顔の別れの場に変えてくれました。やはり家族を同行してよかったと思います。
 最後に初体験の異文化のなかで私の知らないところで多くの苦労を重ね,英語の障壁で落ち込むことの多かった私を激励してくれた妻と,何もわからないままに同行させられ,断えぬ笑顔で私を支えてくれた長男に感謝を致します。
 本稿の題名は渡航前の数か月間,某紙に連載されていたアメリカに関する記事からいただいたものです。私がみたアメリカと他人が見た,また今後見るアメリカはきっと全く違ったものであるだろうという観点から適切な題名だと思いました。もう一度体験したいという願望がパート1に含まれています。

(海洋部・海洋第2研究室)

Mitsuyuki Hirai

目次へ戻る