近況

谷野保夫


 東北水研を後にして、早いもので5カ月が経ちました。人間は出会いは楽しく、別れは淋しいものと相場は決まっているようですが、楽しかるべき人との出会いも、年を取ってからの転勤は、特に人間関係を考えますと煩わしく億劫なものです。東北水研には昭和56年6月に海洋水産資源開発センターから転勤しましたが、当時、所長が三輪さん、企連室長が倉田さん、資源部長が安井さん、資3研室長が竹内さんと知っている方々が揃っていたので、心強く思いながらも億劫な気持ちも幾らかはありました。私は元来、楽天的な性格で、組織やきまり等に対しては、都合よく解釈する方なので直ぐ順応できる得な面があり、まあ、なんとかなるだろうと赴任しました。4年3カ月の勤務でしたが、皆様方の暖かい御支援と持ち前の図々しさから、まずは何とか無事過ごすことができました。心より御礼申し上げます。しかし、50才も半ばでの単身赴任は精神衛生上誠に良くないものとつくづく感じました。振り返ってみましても、侘しく、哀しく、そして見窄らしい思いがします。皆様方も今後転勤というケースに出会うでしょうが、出来る限り家族と一緒に、もし不可能な場合はなるべく短い期間にするように心掛けるべきでしょう。
 私が学校を出まして、今回、東海区水研へ移るまで10回の転勤を経験しています。短い所で2〜3カ月、長い所で10年ですが、転勤の回数が多かった割には仕事の方は比較的一貫しており、その点では恵まれていたと思います。開発センター時代までは、主として甲殻類を含む底魚類の新漁場の開発、新しい漁業の導入という面の仕事を中心に行っておりました。これらの仕事を通じ、また勤務地で沢山の知人、友人を得ることが出来、東北水研時代にも新しい知人、友人を沢山増やすことが出来ました。年賀状や挨拶状を書くときは大変ですが、私にとりましては何よりも大切な財産と思っております。
 東北水研に参りまして、初めての浮魚、しかも研究歴史の長いサンマということで、資源・海洋部長を初め、両部の方々、特に資源1研のスタッフには本当にお世話になりました。予報会議には9回参加しましたが、大変な仕事だったと思っております。東海区水研の『さかな』に“サンマ漁況予報のなやみ”という題で漁況予報及び会議の思い出を書きましたが、最近はソ連200海里内の調査が出来なかったり、サンマの分布が沖合化したり、漁期前の漁船情報が乏しくなったり、その他の様々な悪条件が重なって、サンマ漁況予報を一層困難なものにしているようです。これからはサンマ研究者はより一層協力し、自分らの手で予報に必要な情報を積極的に収集するよう努力するべきでしょう。
 現在、私は東海区水研の放射能部に籍を置いております。部の名称からしますと私などは全く場違いな存在になりそうですが、放射能分析に使用する種々の魚についての分布等生態の面でお手伝いが出来そうです。先般も開洋丸により1〜2月に東マリアナ海盆水域で、250〜5,000mの深度範囲で15層の生物採集を行ってきました。縦横3mの大きな枠網に開閉装置をつけたKOCネットという網を曳網を行いました。深海域のため6時間曳網を行いましたが、実にきれいに曳網されたのには驚きました。特に浅い層ではネットレコーダーを見ながら行いますので、極めて正確な水深を曳いていました。これなどは今後の幼稚仔魚あるいは餌料生物の定量採集には大きな戦力になるのではないでしょうか。今年の7〜8月に四国海盆水域でもう一度試す機会があり、乗船を楽しみにしております。
 こちらに参りましてから、パソコンを始めました。ワープロにも触っています。時間が不足です。“人間至るところに青山あり”をモットーに毎日を楽しく過ごしております。以上、近況をお伝えし、在任中の御厚誼に対しあらためて御礼申し上げる次第です。
東海水研放射能部・放射能第2研究室長

Yasuo Tanino

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