最近の八戸の水産

福島 信一



 昨年12月に八戸から配置換えになったのを機会に,同市の水産の情況を紹介するようにいわれた。東北水研八戸支所に4年の在勤であったが,同所は主要底魚10種と沿岸性浮魚のイカ類・サバ・マイワシを対象とした資源・生態の調査研究が主な業務なので,水産行政全般に関与する機関と異なり,間口が狭く,情報も少なく,適任ではない。内容も地元の関係者には周知の事柄で感想文程度のものにならざるを得ないのを承知で執筆することとした。
 八戸は有数な商工業港でもあるが,全国屈指の漁港で昭和41年に水産物の陸揚量は全国第一位となり、以来ベスト・スリーの位置を保っている。八戸の財政に占める水産の割合は,藩政時代から大きかったという(秋山皐二郎市長挨拶,59年正月)。それだけに市当局は水産を重視し,「八戸の水産統計資料編」(経済部水産課),「魚市場のしおり」(経済部魚市場管理事務所)を毎年刊行している。前者は八戸市の水産業の位置,漁業生産,沿岸漁業及び内水面,漁船,流通加工の5章からなり,水産全般の資料が整備されている。後者は卸売市場の運営,しくみ,水揚状況,流通・処理などが一目でわかるようにまとめられている。それらの資料を見られれば,ここに拙文を記すまでもないが,2〜3特徴的な事柄を紹介させていただくこととする。
 現在の八戸魚市場は構成規模も大きく,3カ所に開設され,陸揚岸壁の総延長は1,095mに達し,各魚市場は取扱内容により,それぞれ次のような特徴がある。第一魚市場にはサバ・イワシ等の鮮魚が主に陸揚げされ,第二魚市場には外洋・近海トロールの底魚類,建網・小型船曳網等の漁獲物・貝類等が,そして第三魚市場(昭和52年3月完成)には遠洋漁業による船内凍結品が主に陸揚げされている。従って陸揚隻数と数量は各魚市場でかなり異なるものの,魚価の関係で金額的には大差なく,57年は第一・第二がほぼ300億円,第三が333億円,総計933億円(71万トン)で,全国第二位であった。
 ところで,八戸はイカの港として名高く,近海スルメイカの好漁年代には,盛漁期にはスルメに加工するため「イカのカーテン」が各所に見られたという。この頃,銭湯の入口で1回の入浴料として数箱のイカを支払うことで話がついたという逸話がある。しかし4ヵ年の筆者の在勤中には,残念ながら「カーテン」にはお目にかかれなかった。近海スルメイカ資源の減少による極端な不漁と,乾燥方法の変化のためと思われるが,いずれにしても漁港八戸は著しく様変りしたものである。そこで,現況の理解のため,前記の八戸市の資料により,年陸揚量の推移と漁業・魚種の変遷等を検討する。
 八戸港の水産物陸揚量は,昭和4年の5,676トンから同5年には11,773トンと倍増し,10年までは1万トン台で,その後14年に5万トンの大量記録があったが,23年までは3万トン前後であった。24年から年々1万トン余も急増し,30年には11万トンの大台にのり,34年の19万トンをピークに39年まで13万トン前後の高水準となった。40年にはさらに急増し21万トン台,43年43万トン,47年には50万トンを超え,53年以降60〜70万トンの大台を維持している。このように昭和年代の初期から55年間の八戸港の陸揚量は三回の急増期と,それに続く安定期を経て,段階的に桁違いに増大して現在に至ったのが特徴である。
 かかる陸揚量の年代的な著しい増大は,漁業の豊漁によることはもらろんであるが(後述),一つには港湾・魚市場関係の整備におうところが大きい。昭和4年に小中野町営湊川魚市場が営業を開始し,この業務を継承し,八戸魚市場は同8年に開設された。(※1)その後の主な事柄としては,25〜26年に魚市場は民営から市営となり,27年には市の水産課に魚市場係が新設された。39年には八戸漁連の3,000トン冷蔵庫が竣工し,49年には同漁連の6,000トンの大冷蔵庫が竣工している。最近では55年に水産物需給調整用(八戸漁達,白銀漁協共同建設)1万トン冷蔵庫が完成し,56年には多獲性魚利用高度化施設(加工組合)2,600トン冷蔵庫と赤身魚高度利用すり身製造装置(加工連)が完成し,さらに59年には水産物流通加工拠点整備事業による八戸加工連・製品倉庫・加工機能施設(残さい処理施設と魚油タンク)が完成している等々,陸上関連施設の整備はめざましい(水産統計資料編 59年版 水産業年史より抜粋)。
 次に前述の陸揚量の急増と関連して,昭和年代初期から50数年間の漁業の変遷をみよう。昭和初期の第一の陸揚量急増期から,14年の5万トンをピークとする年代は東北海区のマイワシが頗る大漁で,八戸港には10〜20トン型の2双まき漁船が連日入港し,活況を呈していた。あたかも最近のような漁況である。第二の急増期25〜29年に続く30年代は,近海スルメイカの好漁年代であり,34年には大漁時に起りがらなイカ釣り紛争があり,漁民大会が開かれている。イカのカーテンが見られたのもこの頃であろう。また28年からは八戸沖漁場のサバ釣り漁業の操業が本格化した。第三の40年から50年代にかけては,55年まではマサバの好漁年代であり,40年から八戸沖の大中型旋網漁業の操業が本格的に行われるようになり,40年と50年には漁場紛争もあった。52年からは200海里時代に入り大幅な減産が懸念されたが,53・54年には北部太平洋旋網生産組合が1日当り陸揚量の調整を行ったほどで,54年の八戸港の水揚金額は史上初めての700億円台に乗った。そして56年からサバは不漁に転じたが,50年頃から爆発的な資源増大期に入ったマイワシがこれを凌駕し,60〜70万トンの記録的な陸揚量が維持されている。
 このように,八戸港の年総陸揚量は港湾・魚市場関連の諸施設の整備と共にマイワシ・スルメイカ・マサバ・マイワシという魚種間の頼著な資源変動に伴う好漁,漁獲努力の増大と相俟って増加の一途を辿ってきた。次にこの辺で,かかる魚種及び陸揚量の変遷と流通・加工方面との関連をみておく必要があろう。多獲性魚を原料とする魚油・魚粕の生産状況は,昭和10年代のマイワシ好漁時代にはイワシ油・イワシ粕が量産されていたが,その後減少した。36〜41年の統計によるとイワシ油の年産は50トン以下で,44〜51年には僅少で記載もない。30年代にはスルメイカの好漁により,イカ油が増産されたが,これは37年の5,686トンをピークに減少,43年からは1千トン以下となった。それと対象的にサバ油が,36年の525トンから急増し,48年は13,000トンを超え,53年の32、000トンをピークとして急減し,記載もなかったイワシ油が,52年の286トンから53年には72倍の2万トン余に急増,58年には83,000トンを記録するに至った。
 八戸の主な加工品の一つであるスルメや塩辛の生産は,第二次世界大戦後に始まったもので,比較的に新しい。それ以前は泊など地方で造られていた。昭和36年以降の市の統計によると,スルメの年生産量は37・38両年の4,200トンがピークで,その後減少し44年には689トンの最低を記録,以後は漸増して最近は2,600トン程度である。なお近海スルメイカ資源が低水準から脱した訳ではないが,日本海・ニュージーランド沖等の資源が開発され,八戸港の最近のイカ類(アカイカを含む)の陸揚量は10万トンを超えており,最重要魚種の一つに変りはない。
 さらに,昭和40年からサバの好漁に伴い,新たにシメサバが量産されるようになり,47年には227トンであったが,50年に2倍となり,57年には4,661トンと実に20倍ののびを示し特筆される。それだけに59年の八戸沖漁場の大中型サバ旋網漁業の著しい不振に伴う陸揚量の減少により,原料魚の確保は極めて深刻な問題であった。59年には東北海区のマサバは前年を上回る漁であったが,八戸沖は海況異変のため魚群の来遊・滞留条件が悪く,散発的な漁況に終始し,サバ主漁場は岩手県以南に形成された。このため同年の八戸港へのサバの陸揚量は約6万トンにすぎず,前年の13万トンに比べ大きく落ち込んだ。
 八戸沖の南下期のサバ漁場は津軽暖流周辺に形成され,沖合からの親潮系水(15℃以下)の接岸に伴って主群が来遊し盛漁期に入るが,59年には親潮は例年より沖側を南へ張り出し,岩手県北部へ接岸し,八戸沖は津軽暖流に覆われた単調な海況が続いた。この状況は関係機関の従来の漁海況情報にも明らかであるが,東北水研海洋部が3ヵ年計画で始めた「暖水漁場の短期予測技術に関する研究」の人工衛星画像の連続観測によって確認されている。また59年の春〜初夏には東北海区沿岸全域に異常低水温(常磐沿岸に重心,平年差−4℃),が出現し魚群の北上が遅れたが,夏〜秋には北部海域は高目となり,南部には冷水塊が持続したので,北高南低の等温線が南北に走る型となった。このため魚群の南方移動の足が早く,主漁場が形成された岩手県以南の海域でも漁場の持続性がなく,変動がはげしく悪条件の一つとなった。なお,本年は9月中旬に銚子沖で中型サバの好漁があるなど,従来例をみない現象があった年である。
 海況・漁況予測の確立は当面の重要研究課題であるが,ここで道東・東北海域のマイワシ・マサバ漁況と海況との関係について一言ふれると,両者は潮境に分布が多いが,食餌の関係でマイワシは冷水塊,マサバは暖水塊と関係が深い。従って両者の生息環境は対照的であり,漁況の経年変動は北西太平洋(170°E辺まで)の盛夏の海面水温の消長と密接な関係がみられ,西低東高(沿岸に親潮が発達)型の年代にはマイワシが,西高東低(沿岸に暖水塊発達)型の年代にはマサバが好漁である。59年の特に異常な海況を契機に,今年あたりから次のパターンヘ移行する変動期に入るものと考えられる。
 一方,ウミネコ(※2)で有名な蕪島から東北水研八戸支所へかけての地先海面では,コンブの口あけなどの光景も見られるが養殖が盛んである。ここのコンブは,そのまま日干もされるが,スキコンブに加工され,味もよく定評があり,地場産業として特筆されよう。この付近にはアカバギンナンソウ(アカハタ)も繁茂し,その採集も盛んでアカハタモチに加工され,地方の味として珍重されている。
 以上,めざましい発展を遂げた八戸の水産の一端を紹介させていただいたつもりである。本稿の執筆に当っては,青森県水産物加工研究所の秋山俊孝所長,東北水研八戸支所の小滝一三主任研究官から多くの御援助を頂いた事を記して感謝する。それにもかかわらず,4年前に八戸へ赴任の当初は,沿岸〜沖合の漁業の実態を究めたいものと野心もあったが,このような散文程度に終り,核心にふれるに至らなかった。また内容もピンボケや勘違いなどによる誤りもあるかも知れないので,終りに識者の御叱正をお願いする次第である。
(海洋部長)

※1)昭和58年9月には,八戸市魚市場開設50周年記念式典が盛大に挙行された。
※2)陸揚量の増大により餌が豊富になったためか,稜みついているウミネコも多いようである。

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