松島がきの今昔

小金澤昭光



 水産研究所の眼下からすぐ松島湾がひろがる。研究所から,真向いにみえる都島,馬放島までは一面,ノリ網が張りめぐらされており,遠く桂島,磯崎に方にはカキ棚が散見される。この松島湾を舞台として,第2次大戦時の日米外交秘話を記したグエン・寺崎の“The bridge to the sun”にも匹敵する,マガキの産業を通じた日米間の太いきずなが結ばれた。このことは,米国のシャトル市長をつとめたSteeleE・Nの“The immigrant oyster”,三浦金太夫氏の“輸出種かきの今昔”の中に一部記されている。このようなエピソードを含めた松島湾のマガキの歴史と今日についてふれてみたい。
 わが国の養蛎業のきざしが見えた時期は定かでないが,延宝2年(1670年),広島で小林五郎左衛門が海中に竹ひびを建て,それに付着した稚貝で養殖を図ったのが最初ではないかといわれている。多くの地方で規模の大小はあってもひび建てによる採苗と養殖が行われたことであろう。松島湾でも,この頃,野々島の内海庄左衛門が天然産のカキの採取のみでは資源瀬が枯渇すると考え,天然の稚貝を集めて適当な海面に散布して成育を図り,その採取期日を定めたという。
 伊達藩政時代のうち1600年代は天然カキ採取の時代であった。1900年代に入り繁殖保養が強化され,天然稚貝の移殖や採取時期の制限の義務付け等が行われるとともに,地播き養殖の方法等も進んできた。一方広島では広島方式ともいうべき,種場に竹ひびを建てて採苗し,成長した稚貝を蒔場に移して育成採取する方式であった。
 松島湾岸の宮城郡で明治10年頃,広島の方法を導入し,在来の方法と折衷することによって,カキ生産が増加し,専業漁家350戸,地まき海面215haに達したという。その後,宮城県水産試験場によってす立棒刺し棚が開発され,さらに水産講習所妹尾秀実,掘重茂教授らによる垂下養殖の考案によってカキの生産量は飛躍的に増大した。
 以上,松島湾を含む仙台湾の今日までの養蛎の沿革である。この養蛎業の基盤確定の中で,大正14年(1925年),宮城新昌氏らによって開発された貝殻による採苗方法は特に注目される。
 特記されるべき産業である種ガキ輸出産業は,明治32年(1899年),米国ワシントン州漁業長官Hugh M・Smithが来日して全国の養蛎場を視察したとき,マガキの養殖種としての特性に着目し,東京帝大の箕作教授に米国への導入の可能性を打診したのがきっかけである。その後,明治年間に北海道厚岸産並びに広島産のカキが幾度となくワシントン州に船便でおくられ甲板積みでも適当な時期に輸送すればへい死率が少ないことが明らかとなった。この時は明治41年,試験輸送を開始してまさに10年後である。以後産業的輸送が本格化した。大正年代に入り,毎年300〜2,000函もの種ガキが米国へ送られるようになり,仙台湾産マガキの輸出も本格化した。
 現在のように1〜15mmの種ガキを輸出するに至ったきっかけは,全く偶然の発見であった。大正8年(1919)に横浜から船積みされた種ガキのうち,彼の地についた後,大型のカキは殆んど死滅したが,貝殻の表面に付着していた稚貝は生き延びていたことからのヒントである。このことを始めとした輸送上の様々の経験から,輸送時期は3月頃,貝は小型,輸送は甲板積みで,海水を適宜散水すること等の知見が得られた。稚貝のみが長期輸送に堪えること,一見偶然のようであるが,この事実を見出した宮城新昌氏を始めとした先人の炯眼は,仙台湾産種ガキの生産増大へ大きな寄与となったのである。
 戦後,GHQ貿易を通して米国側の需要によって,水産物の輸出再開がはかられたのは種ガキが最初である。毎年約25,000函(種苗数:15,000ヶ/函)前後の種ガキが太平洋をこえ,最盛期の1962年には56,000函に達し,米国太平洋岸の殆んどの養蛎場にJapanese Oyster として知られるに至った。
 一方,1960年代に入るとフランスを中心として大西洋沿岸並びに地中海で在来種であるフランスガキ,ポルトガルガキの大量へい死が続いたことにより彼の地で1966年にマガキの養殖試験を行うことが我が国の研究機関,業界に要請された。最初約400kgの種苗が空輸され,移殖実験に供された結果,日本産マガキの種苗としての価値が改めて認識された。その後1970年に本格的な移植がおこなわれるようになり,最盛期の1972年には5,000トンに達した。その頃,チャーター便が年に180機も動員され,帰り便でフランス産ウナギ種苗が輸入されるという具合であった。当時日本産のマガキが,太平洋,大西洋にかけて,“民族の大移動”ともいえる産業的規模での移殖実験を通して,その種特性の優秀性を世界中に喧伝されたものである。
 多くの水産物の大量輸送時代の魁となった種ガキ移殖も1973年のオイルショック以降減少し,今日に至っている。これは輸送経費の高騰,世界的不況も影響を与えている。一方,フランスでは日本産マガキが順調に成育し,産卵母貝を形成して彼の地で天然採苗による自給が可能となるまでになった。現在では,フランスのカキ生産にマガキが占める割合は50%に達している。また米国ではマガキの人工種苗生産システムが確立し,その省力化,効率化が図られ,日本からマガキを輸入しなくとも,自前でより安価に入手可能となった上に,我が国で開発された抑制種苗の方法を導入し,周年種苗を確保する(Seed Banking)ことが可能になった。このように種苗の輸出先における技術水準の上昇からも仙台湾の種ガキの大量移殖時代は終止符をうつこととなった。
 かつて,我が国の特産物として米国太平洋岸始め,大西洋岸の中緯度地帯の養蛎場を席巻し,果ては,南半球のオーストラリア,ニュージーランド,パラオ,ニューベブリデス,ニューカレドニア,フィジー,トンガ,タスマニア,メキシコまで進出したマガキは,現在彼の地に定着し,着実に技術開発と安定生産がなされている。米国太平洋岸のカキの大部分,フランスのパリで食べるカキの50%はマガキで,名前もJapanese oysterからPacific oyster ととってかわられた。
 Mann R(1979)はExotic species in Maricultureの名でWoods Holeでの移殖に関するシンポジウム記録をまとめている。この中でElton C・S(1958)の言葉を引用し“But the qreatest agency of all that spreads marine animals to new quarters of the world must be the business of oyster culture…”と述べている。日本の小さい地場産業が,ある時期に世界の流通に強いインパクトを与えたことを思うと,産業の歴史的歩み,これに係わった先人の苦労,技術開発の先見性と影響力について深く考えさせられる点が多い。産業の発展予測は仲々困難である。しかし,現在増養殖も国際的な技術協力の要請がますますもとめられている状況の中で,研究とその結果開発される増養殖技術の利用可能性や方向性を常に自ら把握しておくことが必要ではなかろうか。
 本稿ではカキを中心とした対外的な産業交流についてふれた。この過程で,日本と海外との研究交流,技術交流も数多くみられた。産業形成のモメント,背景はそれぞれの国によって異なる。彼の地の土壌に育成された多様な文化とその基盤を理解することのない技術交流は成功していない。このような中にあって,最近の進展のめざましい増養殖分野に籍をおくものとして,技術の伝播,成立条件等について,例えば経済地理学的,経済史学的な分析を加えておく必要があるのではないかと感じさせられている。
(増殖部長)

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