本所資源部へ転じて

安井達夫



 昭和22年,その創設から参加した農林省水産試験場宮古臨時試験地時代の3年余を含め,33年9か月に及ぶ試験地・支所生活を経て初めての転勤である。就職当時は,頻発していた沿岸漁業と沖合漁船漁業の紛争あるいは沖合漁船漁業の共倒れの危機の解消策としての減船整理の理論的根拠となる適正努力量を求めるための資源調査研究が,GHQ(在日連合国軍總司令部)の勧告(当時GHQの勧告は命令に等しかった)の下に展開されようとしていた。遠洋漁船の航海士養成の教育を受け,資源などという言葉さえ知らず,漁撈技術か漁場形成の研究でもしようかと思って水試に入ったクラスメート4人が,全国的な資源調査網展開の尖兵として各地に配置された。わけもわからぬまま,委託調査船と称する漁船に,ただで喰わせてくれる白米の飯と獲りたての魚に釣られて,ビター文の乗船旅費ももらわずに乗せられ,厳寒の北の荒海で操業記録と標本魚採集に若い情熱を注いだ。その中で,漁業と漁撈技術と漁船労働と海と魚について貴重な体験的知識を蓄えた。しかし,経験的知識だけでは乱獲問題の解決などという大問題に立ち向う力にはならない。大多数が納得し,協力して問題解決に向って努めるようにするには,経験で試され理論で裏打ちされた方策を拠りどころにしなければならない。それには優れた諸先輩の研究結果を学ぶ必要がある。残念ながら往時の試験地・支所ではそのための良き師・良き友・良き文献に接する機会が少なかった。まとまった時間を獲得して本格的な勉学をするには,給料は安く,公費留学もさせてくれない厳しい時代であった。
 念願叶い(?)人生の峠を越した今ごろになって,勉学ができると期待していた本所に釆て見たら,200海里時代に当面して30年前の支所と同じく「資源量と許容漁獲量の算定」を迫られ,「漁況予測(資源量変動の予測も含む)の精度向上」のほか「増殖技術開発のための魚類生態の調査研究」や「海産生物の海中収容限界(carrying capacity)の見積り」までも要求されているにもかかわらず,昔と違って,若者は補充されず人数も減って,そろそろ初老に近くなりつつある研究者が自ら長期の乗船調査にでかけ,行政要求に対応し,研究もするという重荷にあえいでいる。昼休みに生き生きとテニスなどを楽しんでいるのは,ほとんど他の部課の若者達である。思わず年齢と日頃の運動不足を忘れて挑戦し,体力の減退を思い知った。この現状を黙視するわけにはゆかない。いくら増養殖ブームとはいえ,日本の漁業生産の主体は今でも漁船漁業であり,将来も大きくは変らぬであろうし,資源や魚類生態の研究は要らなくなるどころかさらに重要度を増すであろうから。
(資源部長)

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