塩釜から八戸へ

福島信一


 昨年末,半生以上の研究生活を送った塩釜を後にしウミネコの声の聞える波荒い鮫の海辺に立った時は,八戸へ赴任してきたという実感が湧かなかった。12月16日に支所勤務を命ぜられ,3日間で30年の跡を何とか整理し,19日早朝のくりこま1号で陸奥路を北上,午後には着任,引き継ぎという強行軍だった故かも知れない。年が明け,凍結した雪路に馴れない足を滑らせながら,本州の最北に近い八戸の住民となりきりつつある昨今である。はじめに1980年代の幕あけ,塩釜在勤30年の節目の転勤に当り,本紙に半生の記録の一端を投稿させて頂く機会を与えられた事を感謝する。
 私が塩釜へ来たのは昭和25年9月のこと。同年はじまった「サンマ漁業解禁日決定一斉漁場調査」に,那珂湊水産高校の常盤丸(木造,焼玉,57トン)で参加。トド埼沖でエンジン・トラブルがあり,解禁日決定会議の当日塩釜へ入港,魚市場の岸壁へ飛び下り,3時間ほど遅れて会場へ駈けつけた。汗を拭く暇もなく報告を求められ,「水温が高目でサンマ主群は未だかなり北の方に分布している」旨を述べた。同年の解禁は9月25日と決定され,結果は適切であった。
 東北水研の新設は昭和24年6月で,庁舎が完成,皆が赴任して実際に開庁したのは26年1月である。私は上記の時から塩釜に滞在し続け,川合英夫氏(現京大教授)と市から借り受けた住宅3戸の管理をし,毎日魚市場でカツオ・サンマ等の漁況調査や魚体測定を行った。また三陸へ来航した蒼鷹丸に川崎健(現東北大教授)・小川達(故人)両氏らと乗船,海洋状態とカツオ・サンマ群の分布調査を実施したりした。
 今と違って,資源部職員のほとんどが,半年は海上調査か魚市場における漁況や魚体調査に従事した。前述の小川達君は石巻の専属で,各漁船の漁撈長からも信望あつい好漢であった。もらろん旅費予算は当時から少なく,打ち切りであったから県水試の船へ乗った時など,すぐに帰らず,数日は滞在して場報に目を通したり,あちこち見て歩いた。それらのメモは今でも役立つこともある。また皆よく集っては呑み気勢をあげ,がむしゃらに仕事もしたものである。
 私は小さい頃から海が大好きだったので,よく船に乗り,これまでに官船・公庁船・民間船それぞれ7〜8隻の船にお世話になった。写真をやらなかったので,航海中はなるべくフル・ワッチを心がけ,諸事象の観察につとめ,多くの時間を船橋で過ごした。1月に出港し4月初に帰港した事もあった。航海は定線など設けず,大抵は現場で海況と気象を検討しながら,最良の調査コースを決めた。サンマの調査が主であったから東は175゜E,北は千島の松輪島から本州南方,奄美大島沖に至る太平洋,および日本海の一部を走り回った程度であるが,今でも主な航海の航路や海洋状態の概要をそらんじている。
 10年ほど前,日本のサンマ漁業と研究の視察にアメリカから来日された井上茲氏は,日本の三人のサンマの神々と会ったと述べられている。内藤政治・小達繋両氏と筆者のことである。そして光陰はさらに加速し,30年の歳月は一瞬のうちにすぎた。神様と言えば聞こえはよいが,マンネリ化した専門馬鹿のようなものであろう。その意味では八戸への転出は新旧交替の潮時であり,対象漁業・魚種とも多いから今後の勉強の好機としたいと考えている次第である。
 私はダーウィン,ナンゼン,アムンゼン等を尊敬し、少しでも偉人を見習おうと心がけた。また調査・研究には努力が肝要であり,その端緒や構想は想わぬ時にひらめくものである。従って,何時でもひらめいたものをメモできる用意をし(広告の裏などもよい,寝る時も),それを基に考えを発展させる心構えが大切である。水研には若手の研究者は少ないけれども,皆さんが夢をもち,不断に努力され,それを育て,立派な研究成果をあげられるよう期待し,水産海洋研究の中核としての御健斗をお祈りする次第である。
 八戸は全国屈指の水揚を誇る漁港であり,当支所はその現場にあるので,燃油の高騰・魚価の低迷等による厳しい漁業情勢が実感される。私は新任早々で甚だ微力であり,万事これから勉強することになるが,先輩諸氏が30年に亘って築かれた伝統を受け継ぎ,少しでも発展させるため,心気一転して頑張る所存である。
 終りに塩釜在勤30年間の公私に亘る皆様方の御厚情に心から感謝申し上げ,今後とも一層の御指導・御鞭撻を賜わるよう御願い申し上げる。
(八戸支所長)

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