イカ漁業の変遷と研究

久保田清吾



 今年7月以来,10数年ぶりに太平洋のスルメイカ漁が活況である。たそがれ,わが研究室の窓からも優に200隻に達する小型船の漁火が手にとるように望見される。ここしばらくの間,スルメイカ研究とは名ばかりで,標本の採集も思うに任せぬ日々を送ってきた者にとっても誠に嬉しい今日此の頃である。願わくはこの活況が本格的に持続して欲しいものである。
 ところで,昨年11月に広島市で行なわれたG・S・K浮魚部会のシンポジウムにおいて,北水研の村田氏から「200カイリ水域内漁業資源調査の現状と問題点−イカ資源研究の場合」という報告が行なわれた。同氏は戦後のイカ資源の研究の歴史に3つの段階があるとし,第1は創立間もない水研の研究揺籃期,第2は昭和38年以降の漁海況予報事業の開始期,第3は今次の200カイリ内資源調査への移行期をあげている。このようなエポックの定義づけの当否は別にしても,筆者はこの3つのステージにまたがってイカ資源の調査研究に従事しているわけで,いろいろな意味で感慨深いものがある。そこで,わが調査研究生活にもエポックを画する意味で,来し方をふり返りながらイカ漁業の変遷と研究の現状について考えてみたいと思う。
 筆者が初めて水研の門をくぐったのは昭和29年の春である。この時代は,ようやく戦後の混乱もおさまり経済の高度成長の波が国の内外を覆いつくすにはまだ間のある今から考えると穏やかな良き時代であった。数ヶ年は底びき漁業の委託調査船の専任調査員的な仕事にたずさわり,主として襟裳岬沖や恵山岬沖など北海道近海の漁場でスケトウダラ・カレイ・メヌケ類を相手に魚体測定や漁況調査を行なっていたが,傍ら八戸沖を中心としたイカ釣り漁業にも関心を寄せてきた。
 昭和38年になって八戸支所が従来の組織を二分し,近海の浮魚資源も研究対象とするようになって,安井現支所長の指導の下に本格的なイカ(スルメイカ)資源の研究に従事し現在にいたっている。昭和38年頃の八戸沖のスルメイカ漁業といえば,朝な夕なに300〜400隻の小型イカ釣り漁船が舷々相摩して一斉に出入港し,近海で1晩操業し,早朝未だ吸盤の吸いつく飴色のスルメイカを次々に魚市場に水揚げする有様は大変見事な情景で,やや回復したかにみえる今年の漁況も当時には遠く及ばない。この時期,先般物故した阿部進氏等と分担して入港する漁船を渡り歩いて漁況を聞き取り,魚体測定を行なう日々を繰り返したことは,私どもに大いに充足感を与えてくれた。すっかり顔馴染になった漁労長と話し込んでいる中に,水揚げを終えた船はいつしか5〜6km離れた船溜りへ向う。気が付いた時にはバスで帰る小銭も持たない。トボトボと岸伝いに歩いて帰ったという思い出も大変人間的で懐かしい。しかし,考えてみるとスルメイカの資源研究にとって,この年代は次の年代に比べ大変直截的で,ある意味では楽な時代であったかも知れない。それは1隻の聞き取り調査の結果は完全に1漁獲努力単位のそれであったし,水揚げされる箱数を数えればすなわち1漁獲努力量あたりの漁獲量が知られ,漁獲物の測定結果には昨夜の魚群の生物的特性が反映されていたのである。
 このような大変親密感のあるイカ釣り漁業も昭和40年代に入って大きな変貌を余儀なくされるようになった。何よりもこれまで漁獲物の主体を占めていた冬生れ系統群といわれるスルメイカ資源が急速に衰退し,大体昭和43年を最後にして近海の好漁場は年を追って価値を失なった。漁労機械の方も手巻きドラムから自動イカ釣り機に変わったし,漁船も木船から鋼船になり,果ては300トンクラスの大型冷凍船が大きな比重を占めるようになった。漁船の大型化は当然漁場の遠隔化を促す。イカ釣り漁業もかつての前浜日帰り操業はほとんどみられず,大・中型船は春にはイカを求めて山陰沖まで出漁し,漁期が進むにつれて次第に日本海を北上して大和堆周辺や沿海州・サハリン近海まで移動して操業するという,全くの沖合漁業が中心となった。さらに秋口には一部のものは万里の波涛を越えて,ニュージーランド,タスマニア近海,さらに大西洋にまで出漁する。こうなると,まさに遠洋漁業である。
 資源変動を契機にしたこのような漁業の発展は,われわれの調査研究の遂行に根本的な変革を求めるものであった。まず,従来からの各種沖合漁業なみに,何時・何処で,どの位の期間操業したかの情報収集が一仕事になったのである。まして,水揚げされた1ケースごとのイカが何処の漁場で何時頃とれたものかを知ることは至難といわなければならない。余程奇特な乗組員に当らない限り,水研のために標本にラベル付けして持ち帰って呉れる人はいない(勿論,特別な報償金でも贈れば別の話になろうが)筆者らが水研で調査を始めた頃とは研究をめぐる環境は大きく変化したのである。
 ところで,さきにあげた報告の中で村田氏は1978年のイカ釣り漁業の漁獲成績報告書の提出率は北海道の中・大型漁船で28%,小型船では24%の低率であって,そこで提出された漁獲成績報告書に記載されたスルメイカ・アカイカの漁獲量は水揚地において統計情報部が調べた漁獲量の43%,24%にすぎない(1979年3月末現在)と述べている。筆者はあえて,それはそうだろうなと思う。激しい日夜の労動,漁場への往復に明け暮れる人達にとって,仲間同志の情報交換に精を出すことはあっても,鉛筆なめなめ個々の漁況報告を記載することはまず最も苦手な作業に属すると思われるからである。
 しかし,他の漁業でもそうであるように確実に新しい漁民は育っている。新しい世代は科学的合理的漁民層であるに相違ない。息の長い見通しの下に地道に現状を開拓することこそ筆者らの使命であると考えて努力を重ねている現状である。
 いまひとつ,筆者のこれまでのイカ類の調査研究の中で,新しい対象魚種の出現も大きな出来事であった。スルメイカの衰退に伴ってアカイカ(バカイカ,東北・北海道ではムラサキイカと呼ぶ)の利用が急増した。このイカは従来から沖合に分布することは知られていたが漁業者仲間ではゴンドウイカと蔑称され,特異な体色からして漁獲対象としては殆ど顧みられなかったものである。昭和47・48年頃から加工技術の発展に伴って急速に漁獲対象とされるようになり,いまや本種の太平洋における漁場は西経海域まで拡がっている。近海域では,八戸沖のかつてのスルメイカ漁場域にも分布するようになって,エルトンではないけれども侵略の生態学的立場からも大変興味深い素材である(もし,今年のスルメイカ漁況の回復が本物であるならば,今後どのように分布状況が変化するのであろうか?)。アカイカの年間漁獲量は10〜15万トン程度であるが,本種の研究を進める上で,筆者らのおかれている条件は先の大・中型船による沖合スルメイカ漁業の場合と全く同様である。
 最近になって,アカイカの利用をめぐる釣り漁業と流し網漁業の競合の問題が顕在化している。研究側にもしばしばこの問題についての見解が求められる。原理的には漁労技師の発展・省力化の方向は時代の趨勢と思うし,何等咎むべきものではないであろうが,そこにおのずから秩序が求められるべきことは自明の理と筆者らは考えている。
 さて,以上の経過の中で,突然むかえた今年のスルメイカ漁況の回復である。この回復の原因を何処に求めるべきかは,いまのところ諸説があって充分解明されているとはいい難いし,ふたたび昭和40年代前半までの活況を期待できるかについても,いまのところ良く判らない。しかし,筆者にとって,再び身近に研究のフィールドを与えられたという意味では,何ものにも代え難いし,昔から良くいわれる「漁民とともに学ぶ研究」もこのような漁況調査の下でこそ達成可能なものと信じ,昔に返って市場調査を続行中である。
 青森県は先進的なイカ釣り漁業県である。どの漁業にも増して同県におけるイカ釣漁業の占めるウェイトは大きい。同県水産試験場もまた漁業指導船の活躍の下に県の主幹産業であるイカ漁業資源の研究を精力的に進めている。数年前から発足した200カイリ水域内資源調査においては,このような水試研究者の自主的な研究を尊重しつつ,あい協力して研究レベルの向上を計り,行政需要にも的確に対応することを意図している。
(八戸支所第2研究室員)

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