青空と宝石

佐藤重勝



 北ブラジル水産資源開発陸上調査に,5人組の団長として行く意志を問われたのは,1月22日であった。それから僅かな日数で用意を整え飛び立たなければならない。私はあまりに期日が切迫しているので,すでに決められている予定をキャンセルするのは断念し,沿整中央検討会準備会,所長会議等幾つかの会議にもすべて出席して,その上出発することにした。そしてその計画通りに,2月6日15年ぶりのブラジルへ向けて成田を立つ運びになった。
 調査団は,後発が1人あるので,先発は私のほか3人である。集合場所の箱崎にある東京シティ・エアー・ターミナルでちょっとしたアクシデントがあった。それは,派遣元の国際協力事業団の斉藤氏が,時間になっても現われぬことであった。そして待ちくたびれあわや今日はこれまでというところでやっと間に合った。聞けば,外務省から調査計画書類不備のため出発をのばすように一時は指示された由,結局は行けることにはなったが,今でもこの筋の関係者が外国に行くことを一種の恩恵と考えているらしいことをにおわせる一幕であった。その結果外国に派遣される人達が国外適性よりも国内適性によって淘汰されることになるのは,17年昔も今も変りがないと全く苦々しい感じがした。
 17年前,私は不安を胸いっぱいに,コートに特設したポケットには英語とポルトガル語の辞書をつめこんで,カメラ2台と大きなバックというふくれ上がった姿で,妻子縁者の見送りを受けて羽田をたったのであった。アクシデントはあったが,この度は箱崎で手続きを終って,カメラも小さいバックに押しこんで,見送りの1人もいない成田からの旅立ちであった。
 空の旅は最近では珍らしくない。但し,今回は団長でもあり,以前タイにクルマエビのプロジェクトの調査団長で行った時の実績も加味してか,ファースト・クラスであった。年をとると体が楽なのが一番よい。旅の感想を思いつくまゝ書いてみよう。先ずは日航のスチュアーデスが働き者になったこと,お色直しでちゃらちゃらしていた昔とは随分違う。また一等に乗った特権で酒類は無料であるが,後部のエコノミーの座席に居る3人の団員に,カミュのナポレオンとシバス・リーガルの水割りをいっぱいずつサービスしてくれるよう頼んだ時の返事の良かったこと,それにその先の代金も要求しなかったので大変良い印象を受けた。その時知ったことであるが,この機では底のふくらんだ手で温めて飲む例の型のブランデーグラスがないとのこと,それでは近頃の人はどうして飲むかと聞けば水割り,つまり今はやりのアメリカン,米人も知らぬこの名前が日航のブランデーグラスにまで影響しているのであった。もっとも豪華客船ならいざ知らず,空の旅では早いのが取柄,食べ物,飲み物等は問題ではないのだ。客室に入ってくるなりトランプを取り出し,物も云わず何時間もゲームを続けている老夫婦をみると,如何に進歩してもこの乗物も交通機関以外の何物でもないと悟るのである。帰りの旅では日本の会社の方と隣り合せになり,日本茶(ティ・パック)の御馳走になって,何故これ程まで日本のものを懐かしがるかと素直に感じて,次にギョッとした。今回の調査団われわれ5名,ダルマ以外の日本食は何ひとつ携行せず,日本食の話をしたこともない,驚くべき国際化?人であった。
 2月8日ブラジリア着,ブラジルが内陸開発のために遷都を憲法に明記したのが1891年,実際に遷都したのが1960年,それから20年たった今でもまだブラジリアは建設中である。中央市街地にはこの10年で人口が倍増したといわれているが,それでも約27万人にすぎない。しかし周辺の衛星都市は急成長し,連邦特別区全体では100万人を超えるようになったと云う。ホテルの周辺にも建設中の赤土が生々しく,都市の中心には女性で賑わう公認ボワチがある等,私の眼からみると,このブラジリアの夢を盛りあげているカテドラルの壮麗な建築,各国公館の多様な外観にもまして,ブラジルでの未来に向けての荒けずりな活力は今も変わりがないようにみえた。
 ブラジル側との会議を始め,早速日本では不明だった幾つかの重要点を発見した。早く発見でき,卒直に確認できたのは,私のポルトガル語能力がブラジル到着後急速に回復したことにもよる。先ず調査対象地域の確認によって若干の誤解を発見,それにより調査日程の大巾な変更をその場で決断する。新しくサン・ルイスに寄り,レシフェの日程を短くし,リオ・デ・ジャネイロには2泊だけとする(最終的には取りやめとなる)。またブラジル政府が当面開発対象としているのは,インドストリヤル(企業的)漁業で,アルチザナル(漁民的)漁業ではないことも確認される。アーチザン(職人)の英訳が理解を難しくしていたように思う。ブラジルの漁獲高は80万トンであり,これを5年間で倍増する計画を持っており,これとこのプロジェクトは連動している。
 2月11日から,ベレーン,サン・ルイス,レシフェと空伝いに視察して歩く。熱帯のことで暑いのはいうまでもないが,州の次期知事や総領事閣下と会うのに背広やネクタイは欠かせない。しかし厭だと思えばなお暑い,これが高官の約束事,この国の文化だと思えば我慢ができる。その点は15年前の経験が蘇って,団長の私は平然とし,団員の皆さんもよく我慢をしてくれた。ひどいホテルもあったが,別に事件もなく過ごす。用意していった薬品類で必要だったのは,正露丸とサロンパス,使わず幸せだったのはローソクと蚊取り線香。
 北ブラジルは従来からエビ漁業の盛んな海域である。1977年にそれまでの米国,トリニダッド・トバゴ,スリナム等との入漁協定を打切り,自国船のみの操業にしたので,それまで年間1隻当り25〜30トンの漁獲が昨年は50トンに上り,過去10年間の累積赤字を解消した上黒字を積んだ日本との合弁会社もあるという状態である。その点後発の海上調査に向かう調査団の人達は恵まれていると思う。
 2月18日ブラジリアに帰り,総括の会議を経て,無事ブラジル漁業開発庁のテム長官と協議議事録に署名したのは2月21日であった。それから,サンパウロに寄り,カーニバルの初日のざわめきを後にサンパウロ発,リオ・デ・ジャネイロは空港だけで,再びロス・アンジェルスを経て2月26日成田着。
 カーニバルの本番を見れないとは残念であった。ベレンでは,路上の何日か前の「前夜祭」を,レシフェではクラブで練習を見た団員が多いので,まあよしとしなければならない。しかし私は出発前からカーニバルの前に行くことを強く主張した。その後では暫くブラジル人は気が抜けたようになるからだ。調査団はその点活きいきとした人達と話し合いができたと思う。私もレシフェで15年前の教え子や知人に会うことができた。折あしく土曜と日曜だったので,7人居るという孫弟子には会えなかったが,州開発公社の総裁をしているかつての同僚も一夜のパーティに家族ぐるみで来てくれた。そんな中では,東北水研に留学までしたマリーゼ嬢とはあまり詰もできなかったのは心残りであったが,友情は15年を隔てても変わりはなかった。
 表題は“御機嫌如何”と問われた時のお返しの言葉“万事,オーケー”とでも云おうか,その“オーケー”をしゃれてこう云ったものだ。“青空”は15年前のレシフェで流行していた“トッド・アヅール”,“宝石”は今サンパウロで流行している“トッド・ジョイア”,南米におけるブラジルの立場の今昔を象徴している言葉でもある。
(所長)

目次へ戻る

東北水研日本語ホームページへ戻る