転任にあたって

小達 繋



 急に話が決って水産庁研究課と東海区水産研究所企画連絡室とを兼ねて転任することになった。年度末でもありその他諸般の情勢から1日も早くということであったが,何しろ30年に垂んとする研究生活のみに慣らされてきた身にとって,これからの仕事に対する不安感,やり残した仕事への惜別感が急に湧き出て来たりして,この年令になっての転勤ということにはそれ相応の決心が要ることであった。
 今まで職住一致に近い田舎の研究所生活から,都市型生活への移行,特に交通地獄と云われる東京へ移ることの気重さは,我々同年代に共通する潜在意識ではなかろうか。とも角,長年に亘って乱雑に蓄積してきた文献や稚仔魚の標本等をあわただしく整理して,3月6日に着任した。
 私の一生の大部分を占めるであろう東北区水産研究所における研究生活中の貴重な経験は,忘れ去ることの出来ないことばかりである。時には厳しく,時には楽しく過させて戴いた創立以来の諸先輩各位,同僚諸氏の御厚意に深く感謝申し上げる次第である。
 当初,東北区水産研究所における調査研究のパターンは,東北漁区という海洋特性から,漁獲物を対象として夏はカツオ,秋はサンマの市場調査,それが終ると,冬には専ら資料整理,そして年度末にはその年の成果の総合討論会が開催されるという比較的単調な毎年の繰返しであった。
 しかし,その後研究の進展に伴い,当然のことながらサンマでは再生産補充機構の解明に調査研究の重点がおかれることになった。気象条件の悪い秋から冬,南に北にサンマの稚魚を求めての産卵場調査航海は,文字通り苦楽を共にした数多くの調査船と乗組員各位の容貌と共に深く心に残るものがある。また,1966年秋には,第1回日ソ・サンマ共同調査で,2ヶ月に亘ってソ連調査船に乗組み,その後毎年交互に開催されるようになった日ソ・サンマ協同研究会議なども,東北区水産研究所資源部としては外へ開かれた初めての窓でもあり,現在の漁業情勢から見ても先駆的な役割を果たしてきたと考えている。更に,IBPにおける仙台湾総合調査,別枠「さけ・ます大量培養技術の開発に関する総合研究」等に参加し,良き指導者,協力者に恵まれて,今まで資源研究と異なった解析手法に接し貴重な経験になったことも記憶に新しい。
 しかし,この間我国水産業を巡る社会情勢は極めて厳しい変化を遂げ,200カイリ漁業水域の設定が世界の趨勢となった。これに対応して我国も漁業水域の設定を余儀なくされると共に,周辺水域における漁業資源の評価,許容漁獲量の決定等が焦眉の急となり,これに関連した調査及び作業が進められている現状にある。
 戦後の日本水産業の中で,近海漁業資源の研究を担当してきた我々世代にとって,このような情勢の変化は誠に目まぐるしいものであった。近年,漁海況予報事業等を通じて,基礎資料の収集や広報体制は飛躍的に整備されてきたが,夫々の対象資源の評価,資源量,許容漁獲量等,従来の研究が究極の目標として夫々の研究段階で対応はしていたものの,否応なくその日程が繰上って,現実に我々の眼前に迫ってきたものと云えよう。
 漁業水域内の資源管理の責任は沿岸国が専管するものとされ,資源評価の結果が直ちに国際交渉の場に持出される。その任に当る行政の立場と現実の研究展開のレベルは必ずしも一致しない。これに関連した行き違いを,相互不信の主要な原因としてはならず,いかに解決に向って双方が努力するかということが大切である。また,回遊する魚類にとって海に線引きをされるという非合理性,真の有効利用は何かという基本的課題も忘れてはならない。研究と行政を結ぶパイプ役等と気取ってみても,非力な私の力では重荷であるが,現在の置かれた立場を考慮しつつ,何をなすべきか模索してみたいと思っている。今後共宜しく御指導と御鞭撻をお願いする次第である。
 北西太平洋の極前線帯は世界でも有数の好漁場であり,私もそこを庭先と心得て研究の場として来たが,将来とも日本漁業を支える重要な海域であることは間違いないであろう。そこに位置する東北区水産研究所の皆さん,資源・海洋・増殖各部門のこれまでの蓄積を生かしそして一体となって,研究の飛躍的発展を祈って止まない。御健康を祈ります。
(前資源第3研究室長)

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