第11回日ソ・サンマおよびサバ協同研究会議に出席して

佐藤祐一



 1978年10月13日〜20日にソ連邦ナホトカ市において開催された表記会議に出席する機会を得た。
 8月始めに掘田前企連室長より内示のあった段階では2月の東京における10回会議を体験したこともあって,ごく軽い気持で対応していたが,よくよく聞いてみると,「お前が団長だ」ということである。一団員としての気軽な立場とでは責任の軽重もおのずから違う筈だし,大いにとまどった次第である。事実出発直前に連絡に行った本所資源部との話合いで,200海里体制に伴なうサンマ漁業の一大変容を初めて認識したという程の,誠に頼りない「団長」ではあったが,団員各位の協力を得て,まず大任を果たし得てほっとしているところである。
 海外における国際会議も始めてなら勿論ナホトカ航路も始めての経験の筆者にとって,見るもの聞くもの大いに啓発を受けたのであるが,本研究会議の歴史・性格や会議地ナホトカの点描など,すでに小達さん・福島さん,それに宇佐美さんが述べておられるから,万事大同小異ということで省略させていたゞいて,こゝでは11回会議の大要と残された問題点の記述ということで報告に代え度いと思う。

 今回の両国の出席者は次の通りである。

日本側佐藤祐二東北水研八戸支所
小坂 淳東北水研資源部
粂 知文水産庁研究部資源課
永吉 哲通訳
大石修宗ナホトカ日本総領事館副領事
ソ連側ノビコフ・ユ・ヴェチンロ(太平洋漁業海洋学研究所)黒潮資源研究室長
カレスニチエンコ・ア・エヌバムロ(遠洋漁業基地)次長
サブリン・ヴェ・ヴェチンロ黒潮資源研究室上級研究員
パブリチエフ・ゲェ・ヴェチンロ漁業海洋学研究室長
ケーニヤ・ヴェ・エスチンロ黒潮資源研究室上級研究員
バクシェフ・ヴェ・デプリモルリプブロム(沿海州漁業試験所)所長
シエンバリド・ヴェ・デチンロ科学技術情報部研究員
トリクニョフ・ヴェ・イ通訳
バキーリン・ヴェ・ア通訳

 日本側は経験豊富な通訳の永吉氏および大石在ナホトカ副領事を除いては,いずれも今回が最初の訪ソである。一方,ソ連側は団長ノビコフ氏,サブリン氏,パプリチエフ氏,トリクニヨフ氏等すでにサンマ会議におけるお馴染の顔触れに加えて,若い情熱に充ちたケーニヤ氏(この人は本来マイワシの研究者の由である),通訳ではなかったもののチンロの翻訳専門官といった立場らしく達筆な漢字を書くシエンバリド氏,それに筆者に「きっと名通訳になります」と決意を披瀝して呉れたバキーリン氏等,フレッシュなメンバーも参加していた。
 会議はアメリカ湾(本ニュース5.小達氏報告参照)を挟んで宿舎ナホトカホテルとは正反対の遠洋漁業基地(バムロ)の会議室で行なわれた。こゝは遠洋トロールの基地ということで,ドック中の大・小さまざまの漁船や正に出港直前の2000トン級大型トロール船がずらり勢揃いし,陸上では漁網工場や機機工場が広い敷地に軒を連ねるという活発な雰囲気の場所である。
 双方の発表議題は表の通りであるが10月13日〜16日(但し15日は休日)の3日間はサンマ,17・18両日は主としてサバに関する討議に費された。
 サンマ関係では,前回からの申し合わせによって,年齢・成長の問題が重要課題として討議されたが,小坂氏の永年の資料に基づく綿密な論述は,ソ連側の大きな関心を呼び,夜間ホテルで団員同志の盛んな討議が行なわれた模様もあり,サバの討論の終りに再びこの問題に限って質擬応答が交わされたという,正に今次会議のハイライトともいえる話題提供であった。
 しかし,従来のサンマの成長の仮説の再検討が主旨である小坂氏の結論は会期中に充分理解されたとはいえず,ひきつゞき次回(12回)会議においても討議を重ねることが申し合われた。恐らく次回にはソ連側にも相当の準備がある筈であるから,より本質的な論議が期待される。
 例年行なわれているサンマに関する正式資料・中間報告の交換は型通り順調にといえばいえたが,200海里体制を反映して随所に厳しさを含んだ質疑のあったことも事実で,今後は一層その度合が強まることが予感された。
 今回の主な合意点は次の通りである。

1. 1977年のサンマ資源は76年より高水準であり,漁獲物は中主体の大小まじりであった。ソ連側の漁獲量は65,500トン,日本側はオホーツク海を含めて250,000トンであった。
2. 78年のサンマ資源は比較的高い水準にあり,南千島付近は水温が高目に経過し,漁場は北側に形成された。
3. 78年におけるソ連側サンマ産卵場調査(日本200海里水域外)の結果から推して,サンマの産卵強度は高い水準にあった。日本側の調査では1977年秋の産卵量が多かったし,冬〜春の(ち)1曳網あたり仔魚数は1977年に比べて多かった。
4. 1979年のサンマ資源はかなり高水準になるだろう。

 マサバについては今回が通算3度目の会議であるが,ソ連側から最初の具体的知見の発表の機会で,ベリヤーエフ氏の労作3篇の報告が行なわれた。たゞし,同氏が長期乗船出張中とのことで,上記ケーニャ氏の代読といった形であったため,隔靴掻痒の感は免れなかったが致し方なかった。いずれ別に本文の詳しい翻訳も行なわれる予定であるので,その段階になれば筆者の理解に誤りがあることになるかも知れないが(遺憾ながらロシア語は文盲なので),それぞれの論文の趣旨は大凡次のようなものと理解された。
 「マサバの世代数量形成の生態学的基礎」では,産卵期における水温・風波・台風等の物理的要因および産卵密度が,どのようにマサバ各世代(年級)の生き残りに効果を及ぼすかを,多変量解析とでも称すべき手法で解析したものであった。これら各要因はそれぞれ密接に再生産と関り合うということは当然の論旨である。
 「資源量の評価」は1965〜70年の資料(日本周辺の漁獲量)に基づくポピュレーション・ダイナミックスの展開であり,同年代の平均漁獲量60万トン(この数値の根拠は若干疑問であるが)の持続のためには約4倍の資源量が基礎となるといった論議が行なわれた。
 さらに「マサバの再生産の現状について」では1975〜77年の間に漸次産卵数量およびT年魚時代までの生残率の上昇傾向があることが報告された。この点日本側太平洋系統群の再生産状況の見解と若干の相違があるが,サンマの場合と同様,彼我の調査規模の差の反映でもあろうか,今後の論点となるものである。日本側からは筆者が1975年までの資料に基づく体長(年齢組成の変動および資源量の変動(主として索餌期資料による)について報告を行なった。
 さらに,1978年のマサバ漁況と関連してノビコフ氏からソ連側の最近の漁業の発展,漁場の推移等について紹介があった。それによると1966年から始まったソ連の太平洋側まき網漁業は1970年に50,000トンの漁獲をあげるまでにいたったが,71年から表層トロール漁業が開発され,2年後にはほとんどこの漁業に変って,最近2年間はまき網漁業は行なわれていないということであった。主要な漁場は秋〜冬は日本近海であるが,夏には沖合操業を行なっているということで,その海域は1976年の場合は42゜30′〜45°00′N,152〜160゜E,1977年の場合は43゜00〜46゜00′N,160〜165゜Eということであった。今回はこれ以上詳しい資料は提出されなかったが,わが国漁場の秋〜冬の漁況を占うものとして大いに関心のあるところであり次回からは漁獲量・体長組成等が交換されることになっている。困にソ連側のサバ漁獲量は1975年168,000トン,76年110,000トン(FAO統計)と推定されている。
 マサバに関する今後の会議の方向は,サンマの場合とは全く別の発展をたどりそうな討議の内容ではあったが,ソ連側の見解として,太平洋系群マサバの数量動向の決定に与るのは,第1の話題で述べられた産卵期の諸要因なのか,第2の話題での漁獲努力のいずれを重視するのかといった点など,大いに論議してみたい所であったが,何分にも直接の担当者の出席がないため,多くを尽し得ないのは大変残念であった。
 次回には少壮気鋭(20歳台後半?)のベリヤーエフ氏の来日があるものと期待している。
 討議の概要は以上の通りであるが,共同報告書の起草段階でいくつかの提案がソ連側より行なわれ,中でも両国調査船への研究者の相互乗り入れの提案など,次回に向けての大きな検討事項を持ら帰る結果になった。この他共同発表(1980年イズベスチア誌上への日本側論文3篇の受入れ),次回会議への希望(79年10〜11月塩釜),派遣団員の人数の増加(5名希望)なども提案されたが,増員の問題は今後の会議の発展のためにも是非実現していたゞき度いものと思う。
 利害の対立の多い日ソ漁業関係において「サンマ・サバ協同研究会議」は,終始友好的雰囲気が維持される稀有の例と評価されているようである。今向も大変やゝこしい漁業事情が潜んでいたにもかゝわらず,相互協調を基盤に会議を進行し得たのは大きな喜びであった。そうして,この裏にはソ連側ノビコフ団長の並々ならぬ配慮と気遣いを感じた次第であるが,それにも増して,従来の各回の会議に出席し,路線を決定づけられた多くの先輩各位の労に負う所が大きいと思う。改めて謝意を表し度い。また今回の会議に際しては,乗船間際にやっと渡された査証の問題を頂点に,資源課の各位には面倒な手続きを進めていたゞいた。厚く御礼申上げたい。在ナホトカ日本総領事館の各位には会期中大変御世話になったことも銘記したい。
 いま会議をふり返って,今回は直接共同調査の正式提案はなかったものの,番外でマイワシ関係の質疑を筆者に浴びせ,最後に日本のマイワシ研究者への連帯の挨拶を託されたケーニヤ氏の情熱を思い起す。
 本協同研究会議も発足以来10年を経過して,ようやく次の発展段階に入ったように感じられた。
 従来の基盤を踏まえて,新しい研究者による新しい発展方向を模索することも今後の大きな課題となるものと考えた次第である。
(八戸支所第2研究室長)

目次へ戻る

東北水研日本語ホームページへ戻る