産業研究や大型研究は個人の研究の自由を統制するか

佐藤重勝


 最近水研外の研究者の方から「どうも水研のやり方は.水研以外の研究者の自由な研究をやらせないよう統制している」という声を開く。特にホタテガイへい死やシロザケの海中飼育放流に関する別枠研究では,ミニコミ,マスコミを通じ,時には面と向って難詰されることもある。討論可能な会議や学会の場で出された時や,こちらからその本音を引き出した時は,謹しんでなるべく丁寧に説明することにしている。
 しかし場違いの場所で、これを前提にした論義をされると,頭どころかトサカまで血が上ってしまう。
 冷静に考えてみれば,この種の議論は水研に農林水産技術会議の別枠研究が導入された頃も盛んであった。少ない経常研究費で自由な研究をしている研究者個人が,行政目標をもつ研究に大予算がつくことによって経常研究特に基碇研究をやることが阻害される。この議論は今もその正しさを失っていなと思う。また最近では基礎研究まで取り込んだ別枠研究が生れてきて個人はおろか研究場所の研究の自由も大巾に制限されてきた。そして場所長の嘆きにも拘らず,現場では以前よりスムーズに多くの別枠研究が組識されるようになった。それでは,研究現場は金力で洗脳されたのか,恐らくそうではなく,個人より場所よりもっと大さな組織力の成果にひかれたのだと私は思う。このように考えると,いわゆる政府主導型の研究は参加しない研究者にこの種の疎外感を与えるように思う。
 それにしても,自由や統制という表現は,ともすればその強烈な印象のために論議を拒否するきらいがある。自由とは「法則性の認識である」と云ってしまえば,あとは身も蓋もない話で,話題は「あるべき研究とは何か」になる。しかし「研究の自由」という言葉には.科学が社会に枠づけされない以前のもっと伸びやかな時代の自由人のやる仕事といった郷愁が含まれている。それはそれでそっとしておきたいと私は思う。しかし現在では研究は組織的になり集団で行なわれているのだから,「個人の研究の自由」は他所の組織的研究に対する旗印にはならない。
 それよりもそんな気持にさせるのは産業研究という考え方がまだ新しいせいかとも思う。魚種別研究で固められた水産研究者には特に判りにくいのかもしれない。例えば,養殖生産物も自然の生物と同種という点で,技術からも環境からも切離して考えられがちである。つまり産業(技術・環境)抜きのホタテガイの生物研究の方が通りがよい。私は昭和50年以降青森県むつ湾のホタテへい死に関係しているが,「現在のホタテ養殖が異常になっているなら,正常なホタテ養殖生産がやられていたのは何年か」という問になかなか現場の研究者は答えてくれない。何を基準に異常と考えているかを知りたかったが,数回の訪問後にやっと48年という答を、しぶしぶしてくれた。そのむつ湾から種苗を買っている岩手県で大量へい死がはじまったのは47年からである。その頃から養殖がはじまった湾で大量へい死の研究をする人が出たのには全く驚いてしまう。その湾ではまだ開発研究,企業安定化試験の段階で産業的には安定した環境と技術が確認されぬうちにつまり正常なホタテ養殖が確認されないうちに異常について研究をはじめたのである。この場合の立脚点は「同じホタテではないか」ということである。それにたよって,基準なし,対照(コントロール)なしの比較研究をしてしませう。そこではいろいろな現象は測定できるが,それと正常とはあまり関係がない。種苗問題ではもっと典型的に,履歴も活力も関係なしに.タネは同じと割り切る。これでは対策研究にはつながらないから,対策はできない。この結果を研究として発表する分は無害であるが,現場に普及されるとたいへん害になる。産業研究はしないが,産業には害を与える結果になる。「それではホタテ産業をつぶしてしまうし漁民も結局困るから,研究段階で止めてほしい」と私は云う。これが心なき書斉人には研究の統制とひびくらしい。これは自由と責任のあり方の問題である。
 大型研究でも同様のことが起る。この方は若干気の毒な事情がある。サケの別枠研究を例にとると,計画はいくら遅くとも予算が成立する2年前からはじまる。この段階では誰も予算成立を確約できない。大蔵省と国会を通らぬうちはすべて仮定である。仮定のことに付きあっておれないのも人情である。かくして研究の組織者は懸命にくどくが,予想研究参加者には馬の耳に念仏である。そして大型研究予算が成立する。この段階では組織者も予算は自由にならない。サケの研究の場合,河川内と北洋漁場での研究は進んでいるが,沿岸域の研究は極めて不充分という討議結果に基いて沿岸域に重点が置かれている。するとこの研究は沿岸域重点で河川は手を抜いたと錯覚して河川内の生態研究をはじめる研究者が出てくる。また以前にはサケ研究の試験放流尾数は1件5万尾程度で,これを更に幾つかに分けて1ロット3千尾程度で試験をした。これでは結果がよく把めないので,別枠研究では1件300万尾1ロット数万にしている。このスケールは既に関係者の討議で妥当なものとされているが,小数の放流を同様の鰭切り法で行なおうとする個人の放流は結果的に無力になる。この結果も研究の統制と感ずる人が出てくる。この場合は研究のスケールの時代的変遷を考えざるを得ない。結局は前出の「あるべき研究とは何か」に帰着する。
 結論的に表題の問題提起に自答しようとすれば,馬鹿らしいほど基本に立ちもどって,真面目に学問の論議をしなければならない憤るよりも真面目にこの問題を考えてみようと今は思っている。
(所 長)

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