第9回日ソ・サンマ及びサバ協同研究会議の概要

福島信一


 第9回日ソ・サンマ及びサバ協同研究会議は,去る1976年11月17〜23日,ソ連邦ナホトカ市において開催された。ちょうど,ミグ戦闘機事件が一段落し,200海里時代の幕あけ直前のことであった。この会議は日ソ間の漁業に関する科学技術協力計画に基づいて,1968年以来,毎年開催してきたものである。前回まではサンマだけを議題とし,両国がそれぞれ1年おきに開催国となり,第8回は東北水研の所在する塩釜市で開かれた。従来この会議ではサンマ協同調査・研究の推進を議題とし,最近は両国科学者の相互理解も深まり,会議の運営も定型的な協同調査報告や資料交換などの審議をなるべく短時間で終了し,研究発表や討論の時間が充分とれるよう努力している。
 今回の日ソ両国代表団の顔ぶれは次のとおりである。

日本側  1.福島信一 団長,水産庁東北区水産研究所資源部資源第1研究室長
 2.宇佐美修造 水産庁東海区水産研究所資源部資源第1研究室長
 3.杉浦正悟 水産庁研究開発部研究課底魚資源係長
 4.永吉 哲          通訳,水産庁研究開発部研究課嘱託
ソ連側  1.ノヴイコフ・エ・ヴェ 団長,チンロー(太平洋漁業海洋学研究所)黒潮資源研究室長
 2.カリストラートフ・ヴェ・イ ダリリーバ(極東漁業総局)生産部長
 3.ソコロフスキー・ア・エス チンロー黒潮資源研究室上級研究員
 4.パブリチェフ・ヴェ・ペ チンロー黒潮資源研究室上級研究員
 5.サブリン・ヴェ・ヴェ チンロー黒潮資源研究室研究員
 6.セミョウノフ・ヴェ・イ ダリリーバ国際漁業部主任技師
 7.ベリャコフ・エヌ・ア ナホトカ市漁港次長
 8.トルクニョフ・ヴェ・イ 通訳
 9.リシーツィン・ガ・ア 通訳


 日本側代表団の永吉氏は,第6回会合(東京)以来の名通訳,杉浦氏は前回から,宇佐美氏は初参加で,団長は当初からこの会議に関係している筆者が拝命した。ソ連側は団長ノヴイコフ氏はじめ研究者全員と通訳2名は日本における会議にも出席しており,セミョウノフ・ベリヤコフ両氏もナホトカ会議当初からの顔なじみで,カリストラートフ氏は初参加である。
 日本側代表団の今回の日程は,11月13日,水産庁研究課に集合,会議の対処方針その他打合せ,出発挨拶。11月15日,定期船“バイカル号”で横浜発,出国。17日夕刻ナホトカ入港,同市に滞在・会議。23日,同船でナホトカ出港。25日夕刻,横浜着,帰国。24日,水産庁挨拶,解団。従って,船旅の往復日数とナホトカ滞在の会期とがはほ同日数ということになる。
 横浜−ナホトカ両港間の定期航路には,定期船としてバイカル号,ハバロフスク号など5千トン級のソ連客船が就航し,夏を中心に船便・乗客とも多く賑っているが,今回はシーズンオフで空いていた。船の速力は18ノット,両港間を2泊3日,約53時間の航海であるから,往航時には会議の準備,帰途には取りまとめなど,打合せができ好都合である。
 今回の会議からサバ資源に関する研究討議が正式に議題となったが,「日本側とサバの協同調査を実施したい」というソ連側の希望は以前から強く,この会議でも既に何回か意向打診があったもので,真新しい問題ではない。しかし,今回その初会合において,サンマ・サバの研究者の参加は各1名,実質会期は僅か4日にすぎず,しかも一定の方向づけをするには,会議の運営には特に配慮を要した。本件に開し,議長ノヴイコフ氏(慣例により開催国側団長が議長になる)から,「サンマの定型的な報告と資科交換を全体会議で済ませ,サンマの他の議題とサバに関する討議は分離し,別室で行ったらどうか」と提案された。休憩後,日本側からは「研究者が少ないことでもあり,両魚種を区分せず,すべて全員で討議した方が成果も多いであろう」との見解を示し,ソ連側もこれに同意した。
会期が短かすぎるため,サンマ関係の予定議題数点を割愛せざるを得なくなったが,特に日ソ・サンマ協同研究会議10周年記念の共同出版ついては,今回最終決定の運びとなっていたので,本件の事務処理は場外において進めざるを得なくなった。このためソ連側通訳官トルクニョフ,リシーツィン両氏は正式交換した日本側論文4編の露訳に忙殺される結果となった。それでも両氏の不眠の努力によって,懸案の本件もつつがなく終了,それらの論文が「イズベスチャー」に載るのを待つばかりとなった。
 以上のような日程で審議した議題は表1のとおりである。会議の全容は経過報告書(水産庁研究開発部,昭和52年3月)を参照して項くことゝし,会議の主要点を中心に概要を述べる。
 先ず,1976年のサンマ漁況に関し,ソ連側の漁獲量は約4万トン,史上最高だった前年(6万トン台)をかなり下回る。特徴として例年になく小型魚が多かった。漁況不振の原因は漁期(魚群の北上)の遅れと,海況により魚群が分散し集中した漁場形成をみなかった点を挙げていた。日本側からは漁獲量は約10万トン,親潮前線が極めて不明瞭で海況が単調なため魚群は分散し,かつ盛漁期となる闇夜回りに荒天が続き操業を減じ,予想量(前年の半分,1974年並み)を下回る結果となった。しかし,1976年の特徴として,新宮城丸・カツオー本釣り漁船・イカ釣り漁船などのサンマ魚群発見情報によると,近海〜沖合水域においてはサンマ群の発見が近年になく多い。イカ釣り漁船の中には,タモ網で大・中型サンマ200ケース(10s入り)も採捕した船もあったことを報告した。質議の中では,ソ連の漁獲物に小型サンマが例年になく多かったのは,サンマ群が索餌水域へ回遊する時期がかなり遅れ,北上期の成長が悪かったためではないか,と指摘したが,よく理解されなかった。また魚体が小さいことは尾数に直せば豊度は高かったのではないか,などの論議があった。
 次いで,サブリン氏(若手研究者)から1977年のサンマ漁獲量の予測について,1975〜76年の産卵期におけるサンマ仔魚(体長2p以下)の推定尾数から求めると,日ソ両国合せ20〜30万トンになろうと報告された。日本側からは漁港況の長期変動傾向からみると,1977年は大型魚が多い年に当るが,調査資料がないので断定できない。ソ連側の発表内容には問題点はあるが,漁獲水準としては略々その程度であろうと述べた。
 サンマ関係の定例議題は1977年の協同調査計画・資料交換と駈足で審議した。この間,色丹島〜エトロフ島沿岸において,ソ連側にサンマの標識放流を実施してくれるよう要請し,快諾された。ただし,ソ連側には日本側から報告したような標識票(ビニール・リング)の用意がないので,送ってもらえば乗船中の専門家が実施する旨,ノヴイコフ団長が約束してくれた。既に標識リングも発送し,極めて重要なサンマの回遊路において大量の標識放流が成功し,日本漁船による再捕によって,新たな成果が挙ることを期待している。
 開会第2日(11月19日)の午後は,早くもサバ資源の調査研究に関する議題の審議に入った。先ず,ソコロフスキー氏(サンマ会議に当初から出席)から,ソ連のサバ資源調査の方法論について,歴史的背景から現状にいたる全般的な報告があった。これに関し日本側から十数点の質問があった。翌日,日本側から宇佐美氏が日本のサバ資源研究の概要について,同様内容で報告し,ソ連側からも十数点の質問があった。2日間にわたる活発な討論を通じ,相互に日ソ両国によるサバ資源協同調査の必要性を認め,その実現の可能性,ならびにサバの生活史に関する研究発表と討論を次の会合で行うことで意見の一致をみた。
 サバに関する討論の中では,多獲性浮魚の魚種間関係の話題が日本側から出たが,ノヴイコフ氏(以前この種の報告を書いた)は殆ど関心を示さず,最近,急激に増大したマイワシ資源の動向,あるいはイワシとマグロとの関係などの側面に関する質問を投げかけてきた。ソコロフスキー氏からは,マサバとマイワシは時々混獲されるが,その際には両者の魚体の大きさが同様であること,サンマはサバより北方に分布する等の興味ある話があった。
 ソ連のサバ漁業については,道東沖漁場においては旋網を用いて操業しているが,常磐沖においては中層トロールにより,魚群探知機でサバ群の映像を追跡しながら漁獲しており,操業海域は犬吠崎以北である。ということが判った。以前聞いた情報によると,道東〜色丹島沖におけるサバ魚群の探索には飛行機を使用し,座席など直接必要でない物品は撤去,燃料を満載して半日ぐらい連続飛行・索群する。サバ群は比較的容易に発見できる。群が見付かると操業船にその所在位置を知らせ,誘導するということであった。
 また,よく「サンマを追ってソ連船団三陸沖に出没‥‥‥云々」などの記事を見かけるが,これは昔のことである。ソ連のサンマ棒受網漁業の本格的操業は,1960年以降である。主漁場は色丹島からエトロフ島へかけての沿岸水域で,当初は魚群を追尾し,三陸沖へも南下してきたが,操業船数は限られていた。ソ連では船舶安全法により,沖合へ出漁できる船は300トン以上と規定されている。従って10月以降は時化が多くなり,サンマを追跡して南下しても,大型船では風波による動揺と圧流により,網が皿状になり操業できない日が多い。結局,三陸〜常磐沖のサンマ漁業は経済的価値が小さいので,やめてしまった。というのが実情である。
 次に,市街の様子に話題をかえる。ナホトカ会議の度毎に,何時も心から歓迎して下さるベリヤコフ氏(漁港次長)のナホトカ市の紹介によると,“ナホトカ”とは「見付け物」とか「掘り出し物」という意味で,約100年前,大時化に遭遇した船が難航の末,偶然に辿り着いた湾で,九死に一生を得た船乗りが思わず叫んだ言葉であるという。以来,天然の良港として開かれ、近年は漁港・商港として発展の一途を辿り,来訪の度毎に見違えるようである。人口は現在10数万人,10年後には30数万人の大都市になる計画とのことで,市街は活気に満ちている。日ソ・サンマ研究会議が初めてナホトカで開かれたのは1970年9月,レーニン生誕百年の年で秋の花が咲き乱れていた。しかし。その後は会期が遂次おそくなり,秋の訪れが早まるなどの気象異変も重なり,今回は気温も朝−12〜13℃,昼−2〜3℃で,雪も少し積っており,真冬の様相であった。幸い晴天・無風の日が続き,代表団全員きわめて元気で,快適な毎日を過すことが出来た。
 宿舎はナホトカホテルで,食事は昼と夕は一階のレストランヘ行き,朝は給仕が団長の部屋まで運んでくれる。昼食が一番ボリュームがあり,夜に大食する日本の風習とは対照的である。レストランは夕食時には満員で,楽団が拡声器の音量一杯に歌曲を轟かせ,かなりウルサイが,愉しそうに踊っているグループもあり,時には結婚の祝宴も見掛ける。総じてウォッカ・コニャッカなど銘酒を乾杯(文字どおり満杯の酒を一気に乾す)している割に,街も含めて酔客が見当らず感心させられる。共同報告を採択,閉会の夕はナホトカからウラジオストックへ通ずる峠(車で20分)に鎮座した帆船上で送別の宴を催して頂いた。本船は木造の科学調査船“希望号”で,ナホトカの造船労動者がこの地へ運び再建したもので,機関室はキッチン,胴間はレストラン,船尾はバァー,船橋は10数名が対座でき,此処が会場となった。大港湾都市建市建設のかたわら,このような奇抜なこともやっているロシア人気質に敬意を表し,ウォッカで乾杯した。
 このようにして,第9回日ソ・サンマ及びサバ協同研究会議は瞬く間に終り,翌日の船で帰途についた。会期があまりにも短かく,かつ代表団の人数も少かったので,充分に論議を尽すことが出来なかったことをふりかえりながら。今後の問題として10〜15日程度の会期と,研究者は少くとも魚種別2名の参加が必要と考えられる。
 しかし,帰国後間もなく,漁業をめぐる国際情勢は一転し,憂うべき海洋分割の時代に突入し,日ソ漁業暫定交渉は難航を極めた。日ソ・サンマ協同研究会議は今年で第10回を迎え,10月に塩釜で開催の運びとなっている。これまで純粋の科学研究会議として,回を重ねるごとに両国研究者の相互理解も深まり,新たな調査研究課題に協力して取り組むなど,成果を収めてさたが,今後どのような道を辿るようになるのか,懸念されるところである。
 以上,報告の時期がずいぶん遅くなり,内容も雑ぱくになってしまったが,御容赦ねがいたい。終りに,在ナホトカ総領事舘の総領事はじめ各位には,毎回多大な御援助を賜っていることを記し、心から厚く御礼申し上げる次第である。

(資源第1研究室長)

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