東北水研で仕事をはじめるに当って

林 繁一


 1949年に,今は勝どきと変った月島に通うようになってから28年,この間東海水研,遠洋水研のそれぞれ10年余りを過ごした私は,今までも東北水研にはいろいろとお世話になってきた。1962年仙台湾でマイワシが豊漁となり,それまで東海水研が担当していた業務の一部を東北水研でも始められるという話がおこり,その引き継ぎに往来したこと,翌年の異常冷水を境に急激に深まった北日本まき網組合と水産研究所との交流で,東北水研はマグロ,東南水研はイワシ,サバの資料を持寄って,常盤・三陸各地の組合事務所で,船主・船頭さんと話し会ったことなど,まだ記憶にはっきりしている。当時月島の庁舎にいた私は,三丁目の角にあった東北急行の夜行バスで,塩釜の旧庁舎にしばしばお邪魔したものであった。1966年に遠洋水研に移ってからは,初夏のカツオ長期予報会議,冬のマグロ漁業研究協議会を中心に交流を深めて項いた。この長い交流を通じて,東北水研の諸兄姉が世界有数の豊かな海を対象に直接,関接に日本の水産研究の発展に寄与しておられることに,羨望に似たものを感じていたものである。
 物事には表と裏とがある。豊かな海は一面,漁業活動を盛んにするが故に,そこではぐくまれた漁業はより大きくなり,より広い漁場を求めた。それが海の開拓に果した役割は計り知れないものである。しかし逆に広い領海,狭い公海の時代を迎えた現在となっては,大きな犠牲を強いられる結果を招いている。それと共に豊かな海である故に,東北の海は昔から国内先進地域からの入会漁場であった。最近にいたっては近代装備を持った大型外国船の操業も,人々の注目を集めている。
 こういった「一連の漁業問題を解決するには,平等互恵を前提とした漁業技術を発展させるための協力と限られた資源の有効利用を目的とした漁業管理体制の確立が不可欠であることは,既に多くの人が繰返してきた所である。私もその通りであると信じ,そのための努力を払う所存である。しかしこれは,云うは易く,行なうは難い業ではある。既に5年前小達繋さんが指指された通り,ソ連が日本近海でサンマ等の産卵期を中心に,12月から翌年4月にかけて月1回の頻度で綿密な海上調査を継続し,その結果を交換資料として日本の研究者に提供しているのに比べて,現在の日本側の調査は何とも淋しい感じである。近年における太平洋のカツオ漁獲量の1/2〜3/4が日本漁船によるという事実を考えると(1970〜1975年,FAO統計),日本の資源研究への努力の増大を望む国際世論が強くおこっているのも(たとえば上柳昭治さんのSPCカツオ会議報告,遠洋),少くとも現地の感情論としては,無理からぬものを覚えるのである。
 堀田さんは,昨年10月の本ニュースで研究の果たすべき役割りを述べておられるが,その一つとして「科学的先見牲」をとりあげられておられる。私もまた東北水研に蓄積された研究成果を公開することによって、漁業の舵取り役としての資源研究の仕事が,今までにもまして進められるように,進行係の役割りを果たすのに全力を尽したいと考えている。
 何といっても,この仕事を申し渡された時には,背負い切れない大任といった感を免れなかったものである。僅かな期間とはいえ,国外でフリーランサー的な仕事をしていたこともあって,組織研究に乗るには,余程の勉強がなければならない。幸い周囲の暖い御協力を頂いているので,できる限りの努力を払っている心算であるが,一層の御叱正を期待するものである。
 それと同時に,東北水研を含めて日本の水産研究,特に資源部門の体制が,関係者の多大の努力にも拘らず,切角経験を積まれた研究者の実力を十分に発揮するには,なお欠けているという事実が脳裏を離れないのである。それは若手研究者の不足である。僅かな体験ではあるが,国際会議に出席したり,外国の研究機関を訪ねるとしばしば感じさせられる。20年余り前の日本の水産研究所のように,若い人が大勢いることである。同じことを山中一郎さんも最近の「遠洋」に書いておられる。日本漁業の規模とその置かれている位置を考えると,若手研究者の計画的養成によって,研究陣の絶体数を強化するとともに,均衡を計ることは焦眉の急と云わざるを得ない。
 資源研究を通じて,東北水研が果たす役割りの一端を担うに際して,関係各位の御指導,御援助をお願いする次第であります。
(資源部長)

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