ホタテガイと人間

菅野 尚


技術の格差
 古い歴史を持つカキやノリの養殖は、漁場の水温・栄養・餌料などの対象種に対して不安定要因として作用する環境条件と、養殖施設の設置にかかわる物理的な制約を背影に、多様化した養殖品種の養成と収穫段階での専門化された特殊技術の上に成り立っているが、これは同時に地域間と養殖漁家間の技術に大きな格差をもたらしている。
 過日、大島泰雄先生のお供で岩手県沿岸の養殖地域をおとずれた際、話題がホタテガイ養殖のめざましい発展と漁業協同組合との関係に及んで、山田湾の大沢漁業協同組合のように、これまでの因習を破棄して、十人組みを単位とする班組織での漁場行使とホタテハウスの経営による、計画的な生産が軌道に乗ったのは、『養殖漁家間の技術格差のないこと』が大きな背影となっているのではなかろうかとのご指摘をいただいた。
 たしかに、ホタテガイの養殖漁家間の技術の差は小さい。不安定な環境要因に対してもホタテガイの耐性には幅があり、養成技術・収穫・出荷を通じてノリやカキのような特殊な専門技術を必要としない。反面、この養殖技術の容易性は、一歩間まちがえば養殖漁家間に漁場のうばい合いと、生産の拡大の生々しい争い事を引き起こしかねない要素でもある。多くの三陸の沿岸養殖漁場では、ホタテガイはノリやカキの養殖漁場の外洋側に適地をもっている。ホタテガイの養殖技術の開発によって、いわば新規に使用が可能となった漁場の計画的な行使方法と、誰にでもできる簡単な養殖生産を安定した養殖漁家経営に結びつけたのは、秀れた漁業協同組合の指導者とその組合員であったと私は考えている。 大島先生も東北の沿岸各地の漁業協同組合の活躍には、旅の最後まで感嘆しておられた。
 三陸の沿岸漁場では、ノリとカキの養殖に加えて、新たにホタテガイ・ワカメ・ホヤの養殖生産が発展しつつあるが、これらの養殖技術には複雑な特殊性はない。従って、その生産は条件さえ備われば著るしく発展する可能性をもっている。養殖経営の技術からみれば、養成期間が短く収穫時期が限定され、不安定な環境要因に生産が左右され易い海藻類の養殖と、養成期間が長く収穫時期が比較的に限定されず、不安定な環境要因に対してもその生産が左右され難い貝類・ホヤの養殖との複合養殖を漁家経営の基盤として、将来、地先のアワビ・ウニ類・海藻類、さらには、回帰性のサケ・マス類の増殖生産の拡大も含めた漁業協同組合を中心とする生産活動が、この地方の沿岸漁業の健全な発展につながってゆくものと考えたい。技術の簡易化は、漁業協同組合の発展に大きなエネルギーを与えている。研究者にとっても、技術とは何かを考える素材が、このホタテガイ養殖も発展のなかにあることを認識すべきであろう。

偶然の発見
 『幸福の星は、我々の囲りをいつも、いっぱい飛び廻っている。それをつかまえることができるのは研究者の勘というものだ』とは、当所増殖部魚介類研究室の菊地省吾さんの吐いた名句である。過去十数年間に亘ってアワビの種苗生産技術の開発にとりくんできた彼が、アワビ稚貝の初期餌料として重要な附着性珪藻の培養を行なうために作製した無菌培養装置を、アワビの周年採卵技術開発研究に転用して、同室の浮 永久さんと産卵誘発実験を連日のように繰り返していた三年前のある日、突然のようにそれまで順調に放卵・放精現象を示していた成熟母貝が与えられた産卵誘発刺激に反応しなくなったため、その原因追及を実験に用いた容器の毒性、水質の異常、漏過海水の配管系統の異常、電気系統の異常をチェックして、結局装置に組み込まれている紫外線殺菌灯のスイッチが切れている以外の異常は発見できなかった事から、その後、数ケ月の日時をついやして産卵誘発に関係しているのは紫外線を照射した海水であることを実証した時に、私に言った言葉である。 
 偶然のいたづらが紫外線殺菌灯のスイッチを切らなければ、紫外線照射海水とアワビの産卵現象の誘起との関係の端初となった事象は起きなかったろうし、またこの偶然の機会に、それが大発見であると気がつくことのできる人間は極めて稀であろう。自然の法則を偶然何かの機会に発見するというのは、過去に蓄積された教養に邪魔されがちな凡人にはできることでとではない。まさか紫外線がということで、その意義を見抜くようなことは、自然の現象に対して素直になれない愚生にはとうていできることではないと感心したものである。
 アワビについて菊地・浮さんの研究チームは、ホタテガイの産卵誘発にも紫外線照射海水が効力を発揮することを実証し、その結果は研究報告に印刷中である。この発見は海水の性質や貝類の成熟と放卵・放精現象に新たな問題点と方法論を提示している。また種苗生産技術に対しても、極めて重要な基礎知見を明らかにしている。数年前、青森県むつ湾でホタテガイ養殖の現在の発展の基礎となったタマネギ袋で採苗基質をつつむ天然採苗技術が開発されたが、これも、自然の生物現象を素直に見つめていた一漁業者の偶然の幸福の星の発見であったにちがいない。

生産の技術体系
 体系という言葉のもつ重要な意味は、判るようでなかなか判らないものである。問題にぶつかってはじめてその問題は体系にあることをおしえられることがしばしばである。今日、新聞やテレビのニュースをにぎあわす諸問題も、まさに体系の問題であるが、水産の世界においても体系が問題になることが多くなっている。ホタテガイの生産の最近の一例をとっても、貝殻の処理が現在の技術体系のあり方にゆさぶりをかけはじめている。ホタテガイの増養殖生産が著るしい伸びを示すに従って、その生産量の約二分の一を占める貝殻の処理が大問題になる。かつて一万トン以下の生産に苦悩していた当時に、ホタテガイの貝殻が種ガキの採苗器の原盤として需要に追いつかず、海岸や畠を堀おこし、古い貝殻をひろいだして原盤用に供給していた頃には、まったく考えもみなかった現象に当面しつつある。
 ホタテガイの増養殖生産が発展するに従って、生産の技術体系もまた新しいものが必要となってくる。その過程で採苗・養成技術、貝殻処理、加工技術はもとより、漁場の生産力、漁業権漁場の行使方法、漁業協同組合の役割り等々、自然科学サイドからの生産技術体系の変改のみならず、経済・社会の諸要因もまた問題化の対象となる。
 研究者としての我々は、生産の技術体系の組み立ての基本が何であるかを認識し、常日頃の基礎研究の内容を充実することによって、科学的な生産の技術体系の確立に寄与することが可能なはずである。ホタテガイの餌料、栄養、病気、異常斃死、漁場環境などについての基礎知見は、現在あまりにも少ない。幸福の星を発見できるかどうかも気になるところである。とにかく、『ホタテガイは人間を変えつつある』というのが私の実感である。

(増殖部長)

Hisashi Kan-no

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