サンマの産卵場調査

小達 繁


 サンマの卵・稚仔に関する報告は戦前からあるが、再生産に関連して組織的な調査研究が行なわれる様になったのは極く最近のことである。 
 東北海区はその特徴的な海洋条件によって、生物生産の高い海域であり、世界でも有数の好漁場を現出させる所以でもあるが、回遊性魚類にとってみれば、豊穣な低次生産物を利用する索餌成育の場である。従って本邦近海でも、南部暖水域に偏っているこれら魚類の再生産の場を追求するには、より南へ対象海域を広げる必要に迫られる。カツオ・マグロ類はもとよりのこと、相対的に見ればサバ・イワシ類・サンマにおいてもそうである。この様な条件が、いわゆる漁場海況論を主体とした東北水研の研究手法に影響を与えて来たことは否めない。しかし漁獲物の型別組成、卓越年級群等の変動機構から、資源動態を予察するには、どうしても再生産の問題は切り離せない切実な研究課題である。幸なことにサンマの場合は、少なくとも東北海区の南半分位は、再生産に直接関連した場であるため、戦後、水研が設立されて以来、幾多の調査航海によって、それに関する貴重な知見の蓄積がなされて来た。しかし残念なことに長期的変動という立場では、部分的、断続的であったということはある。
 良く知られている様に、サンマは流れ藻に附着卵を産み付けるので、産卵場において流れ藻を採集してその有無を確めれば、産卵量の推定は可能である。この様な調査は、1953年6月、産卵場として著名な日本海北部で、第1旭丸によって実施されたのが最初であり、その後1956、’57年にも行われた。太平洋側では1957年5〜6月、常磐近海から三陸沖へかけて、流れ藻と共に多量のサンマ卵を採集した。しかしこの時期の卵は、流れ藻附着生物による食害が多いらしく、それより以後の夏季には仔魚の出現は著しく減少する。
 ところが流れ藻の採集と云っても、大型船になる程、特に荒天時においては技術的困難性が増し、連続的な広範囲の定量的調査は仲々難かしい。又秋季〜冬季、或いは沖合水域では流れ藻がそれほど多いとは見られないのに、稚魚網採集によって多量の仔魚が出現する。サンマは仔魚期には海の表層生活者であり、下層における分布は多くない。稚魚期になると日周活動も盛んになるが、総じて25m層では表層の約1/5、50m層では殆んど0という。又、水平的な拡がりはかなり連続的で、パッチ状の密集域の縁辺部では著しく密度が減少する。従って仔魚期のもとでは、表層曳稚魚網採集でも、操作を厳密に行えば十分定量可能と考えられ、定型作業としてもやり易い。一方、孵化した仔魚は自然採集物で見る限り卵黄が存在するのは稀で、孵出直後から摂餌活動に入ると見られる。従って既に卵期及び孵出直後におけるCritical periodを経過したであろうから、生残りを考える上では、より有効と思われる。この様な事情で、現在実施しているサンマの産卵場調査とは、正確に云えば仔魚及び稚魚調査であり、当面の目標は存在量の算定である。産卵生態や卵の分布については、日本海の特定水域を除けば未知の部分が多い現状である。
 さて、この様な経過で行われて来た稚仔調査ではあるが、幾つかの重要な事実が判って来た。歴史的に記述すれば、1949年の「ふさ丸による沖合マイワシ分布調査」(当時、農林省水試・木村研究室)で、副次的に採集された稚仔魚の分類計測が、私とサンマ稚仔の最初の出遭いであったし、1952年3月、東海区水研の好意を通じて、水路部第4海洋丸が伊豆諸島近海で採集した多量のサンマ仔魚を入手することが出来、多大の感銘を受けたこともあった。その後1954年11月、第1旭丸による漁場調査の際、金華山近海でサンマ稚仔が大量に入網したので、急拠予定を変更して連続採集を実施したのが、サンマ稚仔調査の最初の航海となった。このことは資源年報(1954)に、東北海区では空前の出来事として詳細に記録されている。尤もこの年は、それまで数年間出現しなかった大型群が突然大量に漁獲された年であり、後に大型魚による南下産卵、いわゆる秋生れ群の仮説に発展する端緒ともなったのである。これらのことがあって、東北海区における秋季産卵場調査はその後も第1旭丸、わかたか丸、天鷹丸、俊鷹丸、北光丸等によって毎年維続されて来た。この間、1962年11月には俊鷹丸の調査によって、秋生れ仔魚の分布城が沖合(145°〜149°E)へ移行していることが確かめられた。1967、‘68年には北辰丸(釧路水試)等によって、更に沖合へ遷移していることが認められた。この年代には大型魚の漁場来遊も極めて僅かとなった。そして、当時サンマの漁獲が減少してきた原因究明の対策として、1969年からは「日本周辺沖合漁業資源調査」(水産庁、漁調費)が配分されて、産卵場調査も拡充されるに至ったのである。これらの調査の結果として、1昨年(1971年)以来、再び稚仔分布域が近海寄りとなっていることが判り、大型群の漁場へ加入する期待を抱かせた。本年はそれが事実となって現われているが、量的には未だ問題が残されている。北上期(4〜6月)の調査は、1949年のふさ丸(千葉水試)が最初であり、その後1952年に北上丸(岩手水試)、1953年宮古丸(宮古水高、何れも東北水研との協同調査)等の活躍もあったが、‘50年代の中期は北上期サンマ稚仔調査にとって不毛の時期であった。1958〜60年になると、「黒潮前線から分離する暖水塊の漁場形成機構に関する研究」(農林水産技術会議振興費)によって、再び春生れサンマ稚仔に遭遇することになったわけである。それ以降は毎年5〜6月に、わかたか丸、蒼鷹丸、俊鷹丸等によって調査が行われたが、何れも部分的に短期間であり、大量の稚仔に廻り遭う航海も少なかった。稚仔存在量の推定という計画的調査に移行したのは、1971年以後と云っても過言ではない。これも「沖合資源調査費」がなければ実施不可能であった。尚、毎年7〜8月に行われているサンマ解禁前調査の頃になると、稚魚網に入網する稚仔魚は殆んど存在しない。
 南下期・北上期の調査と云っても、実は東北海区という海区制の下での限定された範囲内の断続的調査であって、初期の、特に北上期においては前述の様な漁場形成機構に関する環境調査の一環として、副次的に行われた傾向が強かった。稚仔量の算定などという大それた目的性に欠けていたことも事実であったろう。又、漁海況定線調査に関連しては、各県水試の努力によって、莫大な量の稚魚綱採集標本も蓄積されているが、これらの中に意外とサンマ稚仔が少なかったことも、この間の事情を反映しているものと思われる。
 ともあれサンマ資源研究の進展と共に、曲りなりにも縦続されて来た南下期の産卵に続く冬季の産卵実態の究明が是非とも必要であった。この問題はサンマ研究会でも何度か論議されてきたが、仲々実現困難であった。それまで冬季の産卵については既に幾つかの報告もあり、東京都水試大島分場では1952年頃から、毎年2月、大島〜鳥島間の定線調査でサンマ稚仔を採集し、それらの標本の提供も受けていた。又、南海区水研(当時)の日向灘調査、和歌山・高知・宮崎・熊本各県水試の漁海況調査でも資料が収集され、少なくとも本州南方の沿岸水域においては、稚仔の出現が11月頃から翌年5月頃まで及ぶことが認められていた。しかし沖合における分布は不明な点が多く、冬季の調査が実現したのは1957、‘58年になってからで、これも農林水産技術会議の補助金によった。もっともこの航海では、途中で私はダウンしてしまい、福島・相沢両技官の活躍に負うところが大であった。その後1965、1970年1月に北光丸、1971年には東海大学丸(用船)によって冬季調査が行われ、野島沖に多量のサンマ稚仔が存在することが確かめられた。これらのサンマ稚仔は、同時に採集された関連生物(サギフエ・タカベ稚仔、エビ・シャコの幼生)の混合割合から見て、伊豆諸島或いは黒潮上流城から漂流して来たことが推定される等の成果が得られた。
 一方、東海水研では、戦後マイワシ調査その後沿岸重要資源調査として、毎年冬季に東海〜九州沿海の調査を実施しており、稚魚網採集物の中にサンマ稚仔が年によって大量に入網することが知られていた。冬季産卵の実態を知る為には、先づこの資料を当るのが先決と思い、浜部部長、服部技官(現北水研)にお願いして、それらの標本を測定させて戴くことになった。この作業は1969年から始められたが、多聞に洩れず予算の都合で、十数年間に亘って収集された標本の測定がもう少しで終るところである。この様な事情と、サンマの方では日ソ協同調査の中、国別計画に基づく再生産調査の約束事項もあって調査実施を迫られており、1971年1〜3月には東海水研と蒼鷹丸による共同調査が実現することになったのである。これは限られた期間内で多目的調査となっているが、なるべく沖合までカバーしたいという我々の無理を取入れて戴いて有難い次第である。本年はその3年目で、日向灘〜薩南海区については南西水研も参加された。1972年と’73年の結果は別図(1972年1973年)に示してある。又、南西水研では、1965年以来薩南海区で、冬季稚仔調査を実施しており、サンマ稚仔分布の結果も発表されている。
 以上、サンマの産卵場調査における主要な航海と関連した主な出来事を列記してみたが、数年前までは部分的に過ぎなかった稚仔分布に関する知見が、実在のものとして飛躍的に充実して来たことは明らかである。しかし、これを基礎としてサンマ資源の動態を云々するには必ずしも十全ではない、冬季稚仔存在量と漁獲量(日ソ合計)と見かけ上の正の相関があるというソ連側の提案も、内容的には解析が十分でない。即ちどの発生群がどの様な来遊群の構成に連なるかという問題が残されている。それほどサンマの稚仔の分布は時空的に長く広いのである。
 日本近海における主要な稚仔分布域が、本州南岸の黒潮流軸縁辺にあることは、サンマの種族保存によって何を意味するのであろうか。勿論、分布域には年変動があり、分布の末端である九州南方では特に著しい。又、産卵から孵化まで10〜14日、前述の調査で採集された様な仔魚までには、少なくとも半月以上を要するから、漂流移送の大きいこの水域では、仔魚分布と産卵場所は必ずしも一致しない。漂流期の仔魚は物理的に集斂したり拡散しながら移送されるに違いない。うまく黒潮に乗ったとしても、四国沖から常磐近海までは1ケ月はかかろう。不幸にして南側反流域へ漂泊の身となった仔魚の運命は、生物的・非生物的環境においても危険が多く、再びサンマ資源に貢献する確率は少ないであろう。それにしてもサンマが、変動の激しいこの様な環境に再生産の場を求めるという根本的命題は何であろうか。黒潮によって東北海区の成育場へ必然的に移送されるという適応的存在理由をあげるのは簡単だが、そこには、より安定的な生残りや補給のメカニズムがあるに違いない。
 調査研究の歴史の長さは、必ずしもその内容の豊富さと比例しない。問題は計画の適切さと、密度の濃さにあると思われるが、資源研究においては長期間の定型的な調査の蓄積がモノを云う場合が多い。その意味ではサンマの産卵場調査の歴史をふり返って、その欠落の多さが気になるのである。夫々の時点で最大の努力を払ったとしても、物理的制約は如何ともなし難く、水産研究のおかれている相対的地位の低さを反映しているに外ならない。従って部分的な資料のつなぎ合せという正に日本的な手法に頼らざるを得ない側面があった。勿論、完全でなければ研究が進まないと主張する気は毛頭ないが、それにつけても近年ソ連のサンマ再生産場における精力的な調査活動は並々ならぬものがある。ソ連が産卵場調査を開始したのは1966年からであるが、これはその年に行われた日ソ・サンマ会議を通じて、その必要性を認識した為かと思われる。最近では12月から5月までの産卵期間中、毎月1回、常磐水域から紀南海区に至る広範な海域で稚仔調査を実施している。冬季の産卵水域全体を抑えようとする姿勢、実施されている調査の回数から見ると、日本側のそれより拡充されつつあると云える。そしてこれら日ソの資料によって産卵場水域における稚仔存在量の推定と、それに基づく資源評価が、日ソ・サンマ会議の主要な柱でもある。今年は第6回目が11月に東京で開催される予定となっている。
 ともあれ、サンマの産卵場調査も漸く軌道に乗って来た感がある。国際的にも新局面を迎えて、ますますその重要性を増している。ここらで、サンマに関する産卵場調査をふり返っておくことも無駄ではあるまいと、編集部の要請に応じて書き連ねてみた。サンマの再生産を論ずるには紙数も限られ、水研ニュースに書くこ、とが適当だとも思われない。甚だ雑然として、十分意を尽せなかった。独断僻見に陥った点は、関係者各位のご寛恕をお願いする。
Shigeru Odate

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