暖水塊の調査について

武藤清一郎


 東北海区の暖水塊については戦後多くの研究があり、暖水塊の形成から消滅に至る過程についてもデーターの蓄積がなされている。
 又水産研究の立場からは、海況と漁場形成の関連で注目されており、昭和42年には水産海洋研究会で「釧路沖暖水塊の消長と漁況の関連」と云う課題でシンポジウムが開かれている。この時の問題点として暖水塊の形成機構、移動、消滅の追究及び三陸、道東の海況との関連の把握が必要とされ、更に暖水塊の生態学的意義を明かにすることが云われている。
 東北水研では「黒潮前線から分離する暖水塊の漁場形成機構に関する研究」が昭和33年〜35年に農林水産技術会議の振興費から研究費の配分をうけて行われている。その後函館海洋気象台では金華山沖暖水塊について、昭和41年11月16日〜12月6日に4回の反復観測を行ない、更に釧路沖暖水塊について昭和44年4月25日〜5月16日に3回の反復観測を行ない、何れも暖水塊の変質は殆んどなかったとしている。その後昭和45年より「北方亜寒帯海域に関する総合研究」が科学技術庁の特調費で行われているが、その一環として東北水研は海洋部が中心になり、資源部・八戸支所と共同で暖水塊及び周辺海域の調査を続け今年度で終了することになっている。調査結果については、前述の問題点を含めて関係者の間で充分整理・討論し、海洋資源部以来の成果をふまえてくみ立てることになっているが、ここでは調査の中で得られた2、3の特徴点にだけふれたい。
 はじめに東北海区に形成される暖水塊はその径は数10海里から大きいものは200海里に達し、深さ(厚み?)は深いもので数100米におよび黒潮主流に相当するものもある。又流量は秦氏(函館海洋気象台)によると、黒潮が40〜60×106立方メートル/secに対し、金華山沖暖水塊は10〜30×106/sec、更に親潮水域に入り所謂釧路沖暖水塊となると1〜3×106立方メートル/secとされている。その持続期間は変動が大きく、形成間もなく分裂消失したり、黒潮域に融合消失したりする場合もあるが、半年から1年位金華山沖〜三陸近海に存在する場合や更に釧路沖暖水塊となって1年半以上その存在が認められる場合もある。もっとも親潮域の中に入り1年半以上も存在するときは、表層では判明せず、200米層で周囲との水温差でその存在が認められるに過ぎない。暖水塊の変質は夏季には表層暖水が孤立暖水塊の上部に接合・補給する場合もあるが、主として表層において周辺水塊の影響を受け50−200米層にかけて変質する。暖水塊の真中でクロロフィル量が急激に増えたり、冷水種の動物プランクトンが多かったりする例もある。
 昭和46年に行なった調査では7月下旬に黒潮主流と 400〜500米層まで接合・補給がみられた。この間暖水塊の中心位置は殆んど変化せず38°N、144°E付近にあり、8月上旬に至り再び孤立暖水塊にもどったが、鉛直断面を含めて立体的にみるならば、川合氏(京大農水)の云うように、暖水塊の切離には単に黒潮主流の分岐だけでなく、親潮第2分枝の沖合からの差込みが必要と云う事がここでも再現された。この現象は黒潮主流からの暖水塊の切離の一つのモデルとして考えてよいであろう。又暖水塊の形状は常に一定ではなく変化も激しいことも云われている。昭和47年3月初旬に形成された金華山沖の暖水塊は大型で、径は150海里以上とみられるが(図a)徐々に北上し9月にはその中心が40°N近くに達したが以後又南に下り12月初旬では39°N付近にあった。12月まで7回の観測を行なったが、略々200米以淺の表層を除いて殆んど変質していない。しかしその形状の変化は著るしく9月の観測では半月の間に対照的な形状変化をしていた(b・c図)。尚詳しくは別の機会に譲りたい。
Sei-ichirou Mutou

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