水産研究所における漁業経済研究の現状

庄司東助


 私は水産研究における漁業経済研究の当面する課題と題して最近、「水産業と研究をめぐる諸問題」一研究体制と関連して一1971年11月東北水研討議資料の中で、自然科学研究所である水産研究所の体制のなかで、本来ならば社会科学の研究部門であるべき漁業経済研究が何故必要なのか、その必要性ないし社会的背景等について簡単に述べておいた。そして東北水研では佐藤栄所長の英断と全研究員の理解と支持とによって、「漁業経済研究室」を特別に認めてもらっている次第である。漁業経済研究の必要性から云うならば、まづ 特設の「漁業経済研究室」の予算と人員が先決されねばならない筈であるが、対水産庁との関係からすれば、例えばロケットが月に到達する科学の今の時代であっても、まづは実現性のない夢物語となってくるのである。実はこの辺のところに行政と漁業と研究の矛盾があるわけであって、今日の日本漁業がかかえている深刻な矛盾は、単なる行政指導だとか、政治的判断によって簡単にかたづくような矛盾ではないと思うのである。なるほど或る当面の問題が行政指導とか政治的判断によって体裁よく切り抜けられたにしても、次の段階では問題より複雑になって再燃してきているのである。往々にしてこのような非科学的解決方法はある特定の階層の利益に従って強行される場合にのみ有利な解決方法であって、日本漁業の将来の発展についてはむしろマイナスの作用をすることが多い。もし現在の水産研究所の研究体制が行政の必要によって維持経営されているとするならば、指摘される行政の非科学性は、自然科学的水産研究の科学性をふみにじる結果とならざるをえないし、或は個々の研究者の科学者としての良心をいためつけざるをえないこととなるであろう。しかし本来の行政は実は一部特権階層のための行政ではなく、国民全体のものでなければならないし、研究機関は国の財政で運営されている公的な機関であって、そこに勤務している研究者は科学者の良心をかけて一生を特定の研究にささげているわけであるから、この辺の矛盾について実はもっともっと行政側と研究者側との対話があって然るべきものと思っている。
 しかし、よく考えてみると行政と水産研究(自然科学)が直結するモメントは実のところはないわけであって、私はそこのところに、即ち行政と水産研究との間に漁業経済研究部門が厳として存在しなければならない理由があると思っているのであって、この辺のところが実は私の30年の研究生活を貫いている一本の筋金である。漁業が経済行為として営なまれておって、それが一定の経済法則の下で実践されている以上、まづ始めに漁業生産を貫いてる法則性を探究しなければならないことは当然であろう。「そんなことは自然科学者=水産研究者のおれの専門に属する研究課題ではない、経済研究は別の研究分野で大いに論じ合ったらいいことであって、水産研究体制のなかでそんなことを云い出して混乱させて貰っては困る」といった旧型の研究者タイプの議論は、今日では日本漁業に内在している矛盾の発展によって現実の場において否定されようとしているのである。まじめな研究者の間では最近「今後、研究を円滑に遂行するためには、生物・資源・増殖・海洋・工学その他諸部門の研究者による有機的な共同研究が是非必要であり、総合水研の形をとるべきである」(漁業資源研究会議第10回シンポジュウム講演要旨、6頁)という意見が圧倒的に強くなってきているが、しかし、自然科学の研究部門のみをいくら数多くふやしてもそれは真の意味での総合水研たりえないのであって、社会経済機構の構造解析の科学としての経済学を導入してはじめて総合水研となることが出来るのである。経済学はこの場合扇の要の役を果たしうるのであって、要のない扇の骨は扇の材料にすぎなくなると同様に漁業経済研究抜きの自然科学=水産研究はかえって本来水産科学のもっていた社会的使命を喪失させる結果となるであろう。一般に生産様式は生産力と生産関係の相互関連性・その弁証法的発展の歴史過程として理解されているが、もし自然科学=水産研究が日本漁業における生産関係の科学的認識なくして直接に行政と接触する場合、その非科学的立場は必然的に大きな矛盾接着の深淵に研究者を投げこむ結果をもたらすであろう。しかしごく大まかに言って、自然科学と社会科学=経済学との研究の方法論にはかなり異るものがあって、自然科学的にすぐれた頭脳をもち、研究業積を多く積重ねて来られた研究者たらでも、直ちに経済学の研究方法論をすぐそのまま身につけられるという筋合のものではない。だからもし従来水産研究一本に精根を打込んでこられた研究者が、時代の要請に抗し難く多少ともその時間を割愛して経済学研究に志向されるとしても、それにはそれなりの方法論を初歩から地道に学びとって行かねばならないという困難さは存在しているのである。例えばウインタースポーツの花形としてのスキーを例にとってみれば、スキーとは雪の斜面を二本の細長い板にのって滑り降りること位のことは、テレビをみればすぐ誰れにでもわかって貰えるスポーツであるが、それではスキーを知っていることにはならないのであって、スキーを多少共楽しみ長い東北の冬期を愉快にすごし、老衰との斗いにも役立てようとするなら、まずスキーを履いてイロハから練習しなければならない。この努力の後ではじめてスキーを多少共理解したと云えるのである。見て楽しむスポーツから、やって楽しむスポーツヘもって行くにはそれなりの努力が必要であるのと全く同様に、今や自然科学者たちが多少共総合科学としての経済学を勉強して、それを自分の自然科学=水産研究に役立てたいと思うなら少くとも経済学研究=漁業経済研究の諸論説が理解出来て、その討議内容も理解出来る位の知性と悟性を向上させておく必要がある。だから水産研究所に漁業経済研究が必要であり、その部室が確保されねばならないというのは、単に漁業経済専攻研究者が日本漁業に内在している矛盾を解明して、そのプロパーの業績を積重ねて漁業界に対して役に立つ研究を続けて行くという為にだけではなく、自然科学=水産研究者との研究交流の上で相互の科学的知性を向上させて行く上にも是非共必要なことなのである。もう少し慾を言はして貰うなら、両分野の研究者たちが協力し合って技術論一特殊的課題としては漁業技術論の体系づくりを地道にやって行くべきであろう。ましてや漁業公害問題をさけて通れなくなっている今日の水産研究者の前には、経済学の論理の山道をよじ登らねばならない困難が控えているともいえる。公害に専門なしと言はれているが、このことは即ち総合的立場に立って如何に自分の専門を生かすかということであり、前述の私の意見が一層妥当性を帯びてくるものと思っている。(46.12.22)
Tosuke Shoji

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