日・ソサンマ会議をふり返って

小達 繁


 去る12月6日から13日まで、第4回日・ソサンマ協同研究会議が、ソ連側代表団4名を迎えて東京で行なわれた。筆者は最初からこの会合に参加していた関係上、いわゆるサンマ会議について良く知られていない面もあろうかと思われるので、その性格や経過をふり返って所感を記してみたい。

 そもそもこの会議の発端は、1965年5月、訪ソした赤城農相がイシコフ漁業相と会談した際、「漁業に関する日ソ間の科学技術協力要綱」に合意したことから始まる。その中で両国の漁業の発展に寄与することを目的とした広範な科学技術協力の一環として、「双方に関心の深い漁業資源の共同調査」を実施すべきことが提案されている。翌1966年4月には亀長・クリコフによる意見交挨、6月イシコフ漁業相の来日を機会に、この科学技術協力計画の実施に関する原則的事項が合意された。8月には「1966年における漁業に関する科学技術協力計画」なる口上書が交換され、いよいよ第1年度の計画が実施に移される運びとなった。しかし科学技術協力協定としては、1967年7月に三木外相が訪ソした際署名したものである。
 当初、日本側では、「サンマの資源研究および漁獲に関する資料交換、チンロ(太平洋海洋漁業海洋学研究所 ウラヂオ)における日ソ双方の専門家の協同研究」を内容とする提案をしたが、この協力計画を実施する段階では、「北西太平洋におけるサンマの分布回遊および資源状態について研究を行なうため、日ソ双方の専門家が夫々相手国の科学調査船に乗船し調査に参加する」ことに合意決定されたのである。そして資料および文献の交換は外交チャンネルを通じて行なわれることになった。
 この年は日本側調査団4名が釧路水試の光洋丸に便乗し、釧路港外で待機していたチンロ科学調査船ペラミダ(685トン)に乗船し、10月15日から51日間に亘ってソ連側の調査に参加した。ここに初めてサンマに関する日ソ間の接触が実現したのである。しかし協力計画の実施初年度のことでもあり、乗船期日も再三変更され、終始慎重な配慮の下で行動せざるを得なかった。また調査水域が三陸・常磐近海から沖合へかけてであり、夜間しばしば日本沿岸の灯火を望遠したり、給油のため仙台湾に仮泊するなど、外交ルートを通じてしか通信手段のなかった我々にとって、精神的にも肉体的にも苦難に満ちた共同調査であった。その反面、長期に亘る同乗の結果、ソ連のサンマ漁業に関する情報も概括的ではあるが判明し、初回にしては実り多い航海であったと思っている。
 この年ソ連側調査団は、先方の都合で取止めになった。また同じ頃(10〜12月)、協力計画の一環として、日本側調査団4名が、北西太西洋においてソ連の大型トロール船に乗船している。

 翌年の1967年には、相互主義の原則に基づき、前年中止されたソ連側のサンマ専門家を迎えるべく、配船その他受入準備を整えて待ったが、どの様な事情からかこの年も来日はなかった。 この科学技術協力の諸事項は、年当初に双方によって作成される毎年の年次計画に従って実施するもので、相手国専門家の滞在に関連する経費は受入国が負担することになっている。
 1968年は、年次計画の一環として、「北西太平洋におけるサンマの協同調査の問題点および資源状態」に関する意見交換のための会合が、9月11日から16日まで、南千島附近のサンマ漁場で稼働中のソ連工船 パーベル チェボトニャーギン(15,300トン)上で行なわれ、日本側代表団4名ソ連側6名が出席した。乗船の方法は前回と同様釧路水試の北辰丸をわずらわした。
 この会合がいわゆる日ソ・サンマ協同研究会議の第1回である。しかしその時点では、協力計画の有効期限(3年)の問題もあり、定例会議として存続するかどうかの見透しも判らなかったので報告書には第1回とは書いていない。が実質的にはサンマの分布回遊や資源状態に関する広範な討議がなされ、その後毎年双方で交互に行なわれる様になったサンマ会議の基盤を作った会議でもあった。
 この会議の成果として、北太平洋にはサンマの3つの大きなグループがあることが、共通の認識として理解され、特に中央および北東太平洋群に関するソ連側の情報は、その後日本の沖合試験操業を刺戟する資料となった。また日ソ双方が漁獲対象としている北西太平洋群は、1964年以降漁獲量がそれ以前の1/2に減少しており、その主要な原因として環境条件の悪化が再生産に反映していると、生活域の中心が沖合へ移ったこと等が討議された。ソ連側は漁獲圧力の増大(日本の)が、産卵親魚の確保に悪影響を及ぼしたことを強く主張したが、会議の性格が研究者ベースの討議であるため、それ以上の進展はなかった。何れにしても、サンマの生物学的特性および環境条件に対する知識が未だ不充分であり、今後両国が協力してサンマの繁殖水域、数量動態、特に年令については更に深く研究しなければならないことが共同報告で合意された。また1969年からは、150〜160°Eの水域で協同調査を実施する様、夫々の国の機関に勧告すること、その成果は1970年3月に交換すること等を採択した。丁度日本でも近海水域におけるサンマ資源の減少から、沖合資源開発の重要性が叫ばれ、調査費が予算化される見込みであったため、それに対応出来る準備が進んでいたと云える。
 この様にして、サンマの調査研究に関する日ソの協力関係が、実質的内容を伴なって形作られたのであった。しかし当初日本側では、内容の表現として”共同”か、それとも”協同”なのか等の論議がなされ、夫々の立場から受取り方にニュアンスの違いがあり、必ずしも統一したものではなかった様に思われる。これは共同調査を勧告するということで出発したためもあり、また日本側ではサンマ資源全体の調査の一環として沖合調査を考えており、内部事情としては調査方法の相異或いは配船計画等も関連している。一方ソ連側はその後共同調査水域を重点的に調査をしているので、国際協力の微妙な食い違いをどの様に調整するかは、研究者間の討議を基盤とするこの会議の性格も反映して、難しい側面を持っていた。しかしこの問題は遂年改善され、現在では共同調査の成果は勿論、討議の対象は国別プログラムの調査結果に基づく北太平洋におけるサンマ資源全体にも及んでいるから、実質的には日ソ・サンマ研究会議或いは単にサンマ会議としても差支えなかろう。但し今でも交換文書の表題としては北西太平洋のサンマに限られている。

 さて1969年になると、初めてソ連側代表団4名が来日し、第2回サンマ会議が11月4日〜8日の期間、東京で開催された。議題は次の通りであった。
1969年に北西太平洋で両国が行なったサンマ協同調査研究に関する経過報告。
北西太平洋におけるサンマの資源状態ならびに再生産について。
1970年の協同調査について。
1971年における資料交換について。
議事内容の整理(共同報告書)。

 会議の形式としては、一般に行なわれている様に、前年度の結果および本年度の経過報告、討議される主要課題、それに基づく次年度の計画、合意される共同報告等であり、これがその後のサンマ会議の原型となっている。会議の体裁、内容共整備され、いわば軌道に乗るまで4年の歳月を要したのであったが、それでも未だこの年には、共通語を欠くための相互理解の不足もあり、突込んだ討議になると朋確さを欠く恨みがあった。

 1970年は、9月14〜23日までナホトカ市で第3回会議が開催され、日本代表団6名が出席した。これもサンマ会議としてソ連邦の陸上で行なわれる最初のものとなり、期間も延長された。主要議題は前年に引続き「北西太平洋におけるサンマの資源状想および再生産に関する意見交換」と、「中央太平洋および北米沿岸におけるサンマ協同調査実施の可能性」についてであった。また前から意志表示のあったサバの共同調査について、ソ連側から提案されたが、この問題はサンマ会議の討議対象外のことでもあり、外交ルートを通じての年次計画で合意される必要があることで了解されたが、その後正式な提案はない様である。
 そして本年の第4回会議は、再び東京(会場東海区水研)で開催されたのであった。この会議では、サンマ資源の再生産条件に関する討議が主題となった。ソ連側は、冬季再生産水域における稚仔の存在量から、翌年秋のサンマ漁獲量を予測する資料を提示し、長期予測のため一貫して再生産問題を重視していることを示した。日本側では、再生産水域に分布する稚仔が、成育場へ加入する過程における生物的・非生物的環境条件による自然減耗について説明し、沖合資源の加入にも問題があることを指摘した。何れにしても稚仔量と漁獲量の相関関係の実体を明らかにする必要があり、そのためには先づ日ソ両国が協力して産卵場調査を実施すればより高い精度で推定が可能となることで一致した。そして今後、稚仔採集方法や計算方法で統一すべく、技術的協議がなされた。
 中央・北東太平洋水域については、産業的規模の操業には未だ情報が不足であり、夫々の国別計画に従って実施した調査資料を交換する段階であることが認められた。また北西太平洋における共同調査水域は、従来沖合回遊群を把握するために150〜160°Eの範囲を設定したが、北上期におけるサンマを補捉するには、近海から沖合を含めて調査することが必要であり、結局160°E以西の全水域をカバーすることで合意された。

 以上、過去6年間に亘る日ソ・サンマ会議の経過をふり返って見たが、この会議が国際間の漁業問題に起り勝ちな多くの困難を乗り越え、研究討議を主軸として友好的に進展して来た背景について述べてみたい。
 先づ、「漁業に関する科学技術協力計画」が提案された1965年頃は、サケ・マス・カニ等を中心とする日ソ間の北洋漁業問題は毎年厳しくなりつつあった。サンマに限ってみれば、年々増強されつつあったソ連サンマ船団は、南千島の漁場から次第に南下し、仙台湾に避泊したり、銚子近海で操業するなど、サンマ漁獲量も20万トンに及ぶであろうとの憶測も流れた程であった。加うるに1964年以降、単一魚種で1位を誇った日本のサンマ漁獲量も、盛漁時の1/2以下に減少し、漁場も沖合化するなどの悪条件が重なり、ソ連のサンマ漁業進出が一大脅威として受取られたに違いない。兎に角共同調査を通じて、その実体を見極めようとする動きがあったことは無理からぬことであった。
 因みにソ連のサンマ漁業の実勢を、漁獲量・着業隻数について見るとの通りである。
 ソ連は1953年頃から極東水域におけるサンマの調査を始めているが、産業的規模で着業したのは1960年代に入ってからである。最盛期には200隻以上で、漁獲量4〜5万トン程度であったが、最近は着業隻数は減少している。漁場はシコタン〜エトロフ島近海が主体で、盛漁期は8月である。ソ連の漁業5ケ年計画(1966〜70年)によると、最終年におけるサンマ漁獲量は16万トンと見込まれ、そのためには北上群の捕捉と、南下群の追跡が是非とも心要であるとされていた。事実1966年頃には、南下群の漁獲量が約30%を占めていた。しかし1968年以降は日本近海での操業は認められず、計画が事実とすれば、その通りには進展していない。この主要な原因として、サンマ資源の減少と共に、その漁業形態にあると思われる。
 即ちソ連のサンマ漁業は現在全て日本式棒受網漁法であるが、漁獲物は氷蔵もせずに、翌朝そのまま工船又はシコタンの工場に水湯げして、缶詰加工にするのが普通である。従ってシケの多い南下期に、外洋における荷役作業は非常な因難が伴なう。これまでもシコタン水域で稼働していた船団(工船8〜10)の中、南下して来たのは数船団に過ぎなかった。折から日本近海におけるサバ資源の増大もあって、サンマは積極的に規模を拡大するほど魅力ある漁業でなくなったものと見られるのである。ここにも浮魚を対象とする計画的漁業の困難性がうかがわれる。
 現在ソ連のサンマ漁業は、北上サンマ群が夏季シコタン水域に来遊するのを待って、集中的に漁獲するのが本命である。それ故、サンマ群の来遊時期と来遊量を予測するのが、チンロのサンマ研究者にとって最大の課題と見られる。これらの予測が生産計画や配船に関連するからである。魚体については、日本における程銘柄による格差はない様で、缶詰の最低規準は体長22cm以上とされる。
 漁況予測のため短期的には、サンマ事業本部から派遣される探索船と科学調査船とが協力して、いわゆる漁期前調査を実施しているのは日本と良く似ている。しかしチンロにおけるサンマ資源研究の主題は、数量動態の把握と、それに基づく長期予測にあろう。その一環として、再生産水域における稚仔量から翌年の漁獲量を予想する試みが採用され、そのための調査が実行されているのである。現在ソ連はサンマ再生産水域の調査として、135〜142°E、30°N以北の日本列島南海に8本の定繰を設定し、12〜4月の期間、毎月1回連続的にサンマ稚仔調査を実施しているが、なお精度を高めるため日ソ協力を提案しているのである。

 話はわき道に外れたが、サンマ会議進展の策2の側面として、サンマという魚種のもつ特性によるところが大きいと思われる。良く知られている様に、サンマCololabis sairaは北太平洋全域に亘って棲息しており、これを産業的に利用しているのは、日本海を除けば日ソ両国だけである。しかしその生活域の広さや漁業の特殊性からみて、調査研究を一国だけで行なうことは容易でない。双方の漁業発展を考慮しても、合利的利用或いは開発の余地の残されている数少なくなった魚種の一つでもあろう。その上回遊性浮魚の特性として、自然環境による資源変動が大きく、長期的漁況予測には、広範朗の綿密な調査が必要とされるからでもある。
 その他、サンマ漁業そのものが、国内的には承認制だけの自由漁業であり、漁業条約で対象とされて来た高級魚と違って、基本的には多獲性大衆魚であったという背景も見逃せない。また例えばサバ等の沿岸漁業に比べて、一部では漁業紛争が起るにしても、従来の日本のサンマ漁業が外洋をその主舞台としていたという条件もあろう。

 この様な事情の下で出発したサンマではあったが、現在の日ソ・サンマ会議は比較的自由で友好的なふん囲気の中で、討議を通じてその成果を収めつつあるものと思っている。むしろ長い歴史をもつ日本のサンマ漁業を先達とし、多岐に亘るその研究成果を吸収したソ連の研究者達が、独自の研究とその調査能力を駆使して、大まかではあるが計画的に調査を実践している熱意には驚異ばかりでなく、脅威をすら感ぜられるのである。 
 今後サンマ会議がどの様な方向に進展するかは、「科学技術協力計画」の内容即ち双方が関心を持つ漁業の度合にかかっている。その目的にうたわれている様に、協同研究の成果が漁業の生産性の向上、漁業資源の保存増大および合理的利用を促進し、もって両国の漁業の発展に寄与すると共に、日ソ間の善隣関係を強化することにあるならば、この様な会議は漁業交渉とは異った次元で、利用資源に対する国際間の共通の認識の場として、確固たる将来構想の上に立ってより拡大的に推進すべきではなかろうか。そして最近、我国における水産研究の体制問題が論議されている折から、国内的にもこの様な実践を通じての協力関係の必要性を痛感させられるのである。
 終りにこの会議の推進役である日ソ両国当局者のご配慮と、世話役としてご苦労の多い水産庁調査研究部の担当者の方々に敬意を表すると共に、終始ご協力を戴いている全国さんま漁業協会に感謝申し上げる。

 なお日ソ・サンマ会議関係の資料として、調査研究部から次の報告が出されているので参照され度い。
昭和41年度ソ連さんま科学調査船乗船調査団報告書昭和42年4月
日・ソさんま協同研究会議経過報告昭和44年3月
日・ソさんま研究会議資料昭和44年10月
第2回日・ソさんま協同研究会議経過報告昭和45年1月
第3回日・ソさんま共同研究会議経過報告昭和46年

Sigeru Odate

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