70年代の研究活動の発展のために

佐藤 栄


 科学・技術の社会的地位と役割、あるいは研究者の社会的責任の問題は、戦後いろいろな観点から論議されてきたが、近年とくに研究推進体制の改革問題を契機に活発化してきた。そして、この問題は視点のちがいによって、さまざまにちがった理解と主張を生みだしている点に特徴がある。たとえば、農林水産業をとりまく諸情勢の急激な変化に対応して国民生活の水準の向上と近代化を推進するための諸施策を技術開発と相伴なって実現するためには、試験機関は現在のような体制のままでは十分に対応できない(農林水産技街会議:1969)という見解がある。一方にまた、研究者のなかには客観的真理を認識する態度は、何かのためにそれを知るというのであってはならず、ただ知らんがためにそれを知るということでなければならない、というアリストテレス流の見解も少くない。こうして今、私達は日常的な研究活動のなかで、科学や技術の本質とはなにかという問題を歴史によって問い直されているといってよいであろう。というのは、この問題を科学的に正しく捉えるためには、現実の社会の生産過程に実在する科学・技術が、どこから、どのようにして生れ、またどのように変化、発展してきたかという歴史的道すじを捉えなければならないからである。そのような観点から、ここでは戦後の現実の社会の生産過程、つまり日本資本制経済の発展過程において農学研究がその進展のなかでとり結んできた社会経済的諸条件をふり返ってみたい。
 終戦後1940年代における国の最大の課題は、極度に低下した国民の生活水準を一定の水準まで引上げること、および破壊された生産基盤を立て直して経済自立をはかることにおかれた。このために食糧対策、エネルギー対策、治山治水対策の3つがとくに重点的に推進された(科学技術庁:1966)。そして、いずれの対策も占領政策という特殊な条件のもとに、大きな変革を伴なって行なわれたことはいうまでもない。
 占領軍の対日管理政策の基調は日本の非軍事化、民主化を目標とした経済機構の根本的改革におかれた。たとえば、放射性同位元素の大量分離に関係ある研究や航空関係の研究の禁止、サイクロトロンの破壊、テレビ・レーダーに関する研究禁止などと共に、戦前戦中の戦力増強のための科学軍事動員体制は一応姿を消した。
 食糧対策の関連についてみると、農政もまた、その例外ではなかった。たとえば、”農地改革に関する覚書”(1945)に端を発し、農地改革をはじめとする幾多の重要な施策が、GHQ・NRSの示唆によって相ついで実施され、研究普及行政の改革や試験研究機関の整備総合も、その一環として行なわれた。たとえば、1948年6月農林省内に研究と普及に関して責任をもつ農業改良局が新設され、1950年試験研究機関の整備総合が行なわれた。つまり、農業(農事、園芸、畜産、茶業、開拓)に関する国の研究組織は、従来の専門分野別の縦割組織(本支場制)が解体され、新たに総合試験場の体制をとった農業技術研究所と地域農試(7場所)の2本建となり、専門別分化の方向から総合化の方向へと転換した。また、水産分野では1948年7月、水産局が拡充強化されて水産庁となり、そのなかに研究普及行政を専門に担当する調査研究部が設置された。そして、農林省水産試験場の本支場制が解体され、地域の漁業と密着した研究と普及の実現を目標とする8海区水研(1949)が設置されることになった。
 戦後日本の科学技術振興体制の改革は、大づかみにいえば、1947年8月の学術体制刷新委員会の発足、引つづき同委員会の答申にもとづく日本学術会議(1948)および科学技術行政協議会(STAC:1948)の設置、新たな工業技術庁(1948)の設置、および上にのべた農林省試験研究機関の機構改革によって、一段落をみることになった。1940年代においてとくに注目されることは、わが国の科学に関する重要事項を審議する政府機関として、しかもその会員は全国科学者による直接選挙によって選ばれるという世界に類のない民主的機関として日本学術会議が発足したことである。1949年1月の創立総会において、学術会議は”・・・さればわれわれは、日本国憲法の保障する思想と良心の自由、学問の自由及び言論の自由を確保するとともに、科学者の総意の下に、人類の平和のためあまねく世界の学界と提携して学術の進歩に寄与するよう万全の努力を傾注すべきことを期する。・・・” と決意表明を行なっている。つまり、敗戦によって挫折した国民のあいだに、わが国は今後文化国家として立つべきであり、そのためには学術の重視、科学の振興がなによりも急務であるという機運が高まったことを反映しているといってよいであろう。
 やがて戦後の混乱の10年がすぎるころ、朝鮮戦争を契機に資本の蓄積を高めた日本経済は、1955年ごろから戦後日本独占資本の発展期にはいり、工業生産は戦前の3〜4倍に達した。既成の4大工業地帯では、地価の上昇、工業用水、港湾能力用地の不足など悪条件が生じ、新産都市構想を生みだす条件が成熟しはじめていた。つまり、日本経済は1950年代の半ばをすぎるころから、経済自立5ケ年計画(1955)、新長期経済計画(1957)国民所得倍増計画(1960)、などに典型的な姿が現われているように、いわゆる高度経済成長期にはいり、技術革新にたいする経済界の要求が急速に高まっていった。
 このような経済的土台を背景として、1956年科学技術会議および科学技術庁が設置された。その設置の理由は ”これまで科学技術振興が戦時いらいしばしば叫ばれてきたが、その実が伴なわず一時的におわり、・・・関係者の努力にも拘わらず永続的に推進を続けることがなかった”ことが指摘され、”時流を追わず永続性ある一貫した対策を強力に押し進めることこそ、科学技術行政に要請される最大のものであろう”(科学技術庁1966)と説明された。すでにふれたように、科学技術会議を生みだした土台は資本の技術革新にたいする要求であるが、日本学術会議およびSTACに対して批判的であった自民党内には、すでに1951年”科学技術振興特別委員会”が設けられ、1952年には”科学技術庁設置要領案”すなわち前田構想が作成されていた。国会内部では1953年に科学技術振興議員連盟が結成され、また1954年から経済同友会は”科学技術促進対策”を決定し、経団連は”科学技術総合行政機関設置の要望”および”科学技術行政機関設置の要領について”などを政府に建議した。
 一方において、民主主義科学者協会(民科)はこのような動きにたいして反対運動を行ない、日本学術会議は1953年4・5月の両総会で、さきの自由党案および科学技術議員連盟案にたいして、学問・研究の自由を奪うおそれがあり、科学技術を政治、軍事の目的に奉仕させるおそれがあるとして反対の意向を表明した。しかし、1955年第22回国会衆議院商工委員会の科学技術振興に関する小委員会が科学技術庁の設置を決議するに及び、政府は同庁設置法案の作成にとりかかり、1956年第24回国会に法案を上程可決した。このような経過と出発当時の部局の構成から明らかなように、この機関の使命は原子力開発など巨大科学、および航空機・電子工業開発などのプロジェクトの推進、すなわち当面する技術開発およびその技術行政の統轄に重点がおかれたものである。つまり、土台となる基礎科学と技術開発の関連、および学術会議との関連が十分に論議されないままに出発したことが特徴的である。このことは1960年代にはいって、日本学術会議が主張する”科学研究基本法”の理念と政府の”科学技術振興法”とのあいだに、大きなくい違いを生みだすことになった。前者は基礎を育成し根を十分に養って、やがて成果を得ようとするのにたいして、後者は直接成果の獲得を焦点とするものであった。
 科学技術庁が設置された1956年には、農林水産関係の試験研究の拡充強化、試験研究の綜合化、試験研究と一般行政の連けいの強化を目的として、農林水産技術会議が設置された。その理由は”試験研究管理機構が各局庁に分属し、一般行政事務の一部として行なわれてきた関係と試験研究の特殊性から、その機能が正当に評価されず、結果的に試験研究の推進が十分に行なわれなかった。そこで機能を正当に評価し、農林省の内外にものいえる統轄的な機構をつくって、試験研究の拡充強化を行なうことが第1の理由”(技術会議:1966)であると説明された。
 しかし、注目すべきことは、当時の日本の高度経済成長の過程で、日本農業の社会的地位と役割もまた、変貌しはじめていたことである。戦後の深刻な食糧難は、社会的にかってないはど農業にたいする国民の関心と理解を深めさせた。そして農地改革による小作人の解消は農業生産にたいする農民の意欲を高め、稲作技術における品種改良、化学及び機械工業の農村市場の開発による施肥および農薬の多投、動力防除機(1950)・動力耕転機(1952)の使用などをつうじて、米の総生産は1955年には戦前の水準をこえて1,150万トンに達した。また、1954年のMSA余剰農産物協定によりアメリカから安い食糧が輸入されることによって、戦後日本経済の復興にたいする農業の役割は一段落をつげた。資本が次第にコスト高になる小農維持政策に疑問をもちはじめた独占資本から、米作疎外論が流布しはじめたのはこのころからである。
 このような時期に登場したのが河野農政であり、その焦点は1956年にはじまる新農村建設事業であった。それは町村合併促進法(1953)によって新しく出発する市町村を中心に、新しい農業と農家のあり方を求めようとしたもので、農業生産の適地通産と農家経営の合理化に焦点がおかれ、従来の食糧増産政策の放棄といわれるほどの大転換をめざすものであった。そして、新農山漁村建設という大事業の推進にあたって、それをバック・アップする技術開発の基地として試験研究機関の連絡調整が問題とされ、農林省の一元的な窓口として農林水産技術会議が誕生したわけである。
 しかし、1958〜1959年の”岩戸景気”が生みだした都市と農村の所得隔差の問題は、年をおって激しさを加えていった。戦後日本の工業政策をふりかえってみると、戦後の治山治水対策を背景に1950年代にすでに、国土総合開発(1950)、首都圏整備法(1956)、東北開発促進法(1957)、九州地方開発促進法(1959)、つづいて1960年に四国・中国・北陸地方開発促進法が制定されたが、実質的効果はなかった。やがて1961年6月通産省で工業適正配置構想が発表され、8月には太平洋ベルト地帯構想が生れた。ついで、1962年に新産都市建設促進法がつくられた。それは新しい工業基地が太平洋ベルトに偏するのは適当でないこと、単なる工業基地の建設ではなくて総合的な都市機能をもった都市の建設が重要であることなどをうたい、いわゆる拠点開発構想としてまとめられたものであった。同年10月には国土総合開発法にもとづいて、いよいよ全国総合開発促進法が発表された。それは”国民所得倍増計画”に即し、都市の過大化の防止と地域隔差の縮少を配慮しながら、自然資源の有効利用および資本、労働、技術など諸資源の適正な地域配分をつうじて、地域間の均衡ある発展を計る、ということに目標がおかれた。
 しかし、資本には資本の論理があって、国際競争の激化を目前にひかえて”工業集積の利益”を守るために、4大工業地帯の行詰り打開は、まず周辺部への拡大によって工業集積の利益を追いながら進められ、それは新産都市構想と矛盾するものであった。たとえば、京浜工業地帯では川崎地区を埋立て、石油化学コンビナートをつくって過密化の限界にいどみ、一方に千葉県東京湾岸を大工業地帯化して”京浜・京葉”というよりは”東京湾沿岸工業地帯”として若返り拡大をはかった(山本:1969)。つまり、1960年代の高度経済成長は、地域経済社会にたいして構造的再編成を要求しながらも、基本的には4大工業地帯の行詰り対策および国際的規模のコンビナート形成という資本の要求を、総資本的合理主義の立場で満たそうとする方向に進められた。そこでは資本の強いもの勝ちの工業立地が優先し、国民経済的な立場からの合理的工業配置、労働生産性向上のための真の総合的な計画は実現されなかった、といってよいであろう。このことは、60年代の高度経済成長が、公害、過疎、過密、社会資本の不均衡を生みだし、とくに日本の農業地帯の地域経済社会にたいして、労働力の吸収と金融財政融資の2つの面から経済的圧迫を強化していった過程に、典型的な姿をみることができる。
 このような社会の経済的土台の特殊性を反映して、政府は1957年にはじめて農林白書をだし、”農林水産業の現状と問題点”(農林大臣官房企画室:1957)を分析して、日本農業の5つの赤信号をかかげて農政の転換を喚起した。こうして、農政論議が活発化するなかで”農業基本法ブーム”が生れ、政党、農業団体のあいだに基本法制定の要望がたかまった。やがて、1959年政府は農林漁業基本問題調査会を設置して、農林漁業の基本問題を明らかにして農政の基調を明確にしようとした。この調査会は1960年に”農業の基本問題と基本対策”を答申した。そこでは農業基本法の問題にはふれていなかったが、1961年にこの答申をもとにして”農業基本法”が制定されるにいたった。
 農業基本法は農政の目標を、農業と他産業の生産性の隔差を均衡させ、それによって農業の発展と農業従事者の地位の向上を計ることにおいた。そのために従来からの諸施策に加えて、農業生産の選択的拡大、農業構造の改善、農業従事者および家族の転職促進などの新しい政策をかかげた。そして、1961年以降の農業施策が、この基本法を中心に推進されたことはいうまでもない。基本法の制定に対応して、農林水産技術会議は1961年5月”農林水産業に関するこんごのおもな研究目標”を公表し、試験研究が時代の要請にこたえるとともに、農林水産業の将来を見とおして進められるように基本的な方向づけを行なった。ついで、1961年12月試験研究体制の戦後第2回目の再編成を行ない、基本法でいう選択的拡大を要する部門とみられた畜産、園芸部門の強化がはかられた。つまり、農技研の再編成によって畜産、園芸、茶業、農業土木の各部門が独立することになった。しかし、日本農業の基本的問題を生みだしている根源は、すでにふれたように日本資本制経済の異常な発展過程における経済的圧迫、つまり都市と農村の依存と対立の矛盾であり、基本法の目標の実現は多くの障害をうけて曲折してきた。このことは、基本法農政の重点であった第1次農業改善事業の効果と限界として、現実の農業生産過程にあらわれていることはいうまでもない。
 やがて、1970年代にはいって、科学・技術の研究活動をめぐる諸条件は大きな変化をみせはじめている。たとえば、1969年5月新全国綜合開発計画が閣議決定をみた。そこでは、従来の地域開発政策の反省と将来への長期展望が行なわれ、昭和60年までの国土利用に関する計画課題を、交通・情報ネットワークの整備、産業開発プロジェクトの実施、および環境保全プロジェクトの3つのタイプにわけ、それぞれ大規模プロジェクトを実施して、その誘発効果をつうじて全国土の均衡ある発展を期待しようというものである。新全総を生みだした70年代の日本経済の特徴は、いままでとは質的に180度異なった積極的な自由化の方向へ向かいはじめたことである。たとえば、金融関係の現状分析と主張は、できるだけ早く徹底的な輸入の自由化、関税の引き下げを行ない、積極的な経済援助、資本輸出を行なわなければならないということに焦点がおかれている(竜・根津:1970)。
 また、1971年4月に答申した”1970年代における総合的科学技術政策の基本について”はつぎのようにのべている。1960年代においては第1号答申にしめしたように、主として探索的研究開発の推進による科学技術水準の全般的向上を目指し、その成果の社会・経済の発展への寄与を期待するものであったが、1970年代においては、人間福祉の向上のための科学技術という考え方にたって科学技術の進歩の方向づけを行なうことを念頭におきながら、社会・経済などの個々の具体的なニーズに即して、規範的に研究開発を行ない、科学技術面でこたえることが重要な内容となるべきであるという。
 また、緊迫した農業情勢の変化と内外の批判のなかで、”農林水産業に関する試験研究推進上の検討事項”(農林水産技術会議:1959)は、生産の大規模化、流通の合理化・近代化を計る諸施策が技術開発と相伴なってとられなければならないとして、試験機関がこのような方向に対応するためには、現在のような体制のままでは十分に対応できない情勢にあると指摘している。さらに、水産分野においては1969年から主として部長会議を中心に、部門別の研究推進方策の討議が進められ、中間報告は1971年1・3月の所長会議において論議され、調査研究部の基本構想案が5月所長会議に提出されたことは周知のとおりである。
 これまで戦後の日本経済の発展過程において、科学・技術の研究活動がとり結んできた社会経済的諸条件を眺めてみたが、このような大まかな分析からでも私達は、現実の科学・技術の研究活動と社会的生産のあいだに、一定の規則性のあることがわかる。たとえば、科学・技術の研究活動は相対的独立性をもちながらも、社会の経済的土台の質的・段階的変化によって大きく規定されている。研究体制の改革について、基本的な根拠とされてきた社会の要請、農漁業の危機といわれるものは、日本資本制経済の質的・段階的変化に根源をもち、農・漁業の問題点といわれるものは、現実には地域経済社会の構造的再編成を要求しながら農・漁業にたいして経済的圧迫を強めてきた日本資本制経済にその根源が求められなければならい。また、農林漁業分野の国立研究機関は、戦後の日本資本制経済の発展段階に対応して、第1次(1948)および第2次(1961)の機構改革を行ない、70年代にはいって第3次改革が行なわれようとしている。しかし、残念なことに、改革にあたって社会の経済的土台、農漁業経済構造および研究活動のあいだの歴史的関連について、科学的分析は十分でなかった。このことは、戦後の重点対策として食糧、エネルギー、国土対策がとりあげられたが、その実体である農・漁業および工業が現実の社会においては抽象的な開発ではなくて、商品生産として、資本制経済としてそれが実現されていくという具体的把握が十分でなかったことを意味する。また、研究活動を一貫する基本的道すじが、必ずしも明らかでなかった。したがって,研究活動と施策はつねに予想外の現実の大きな矛眉と限界に当面せざるを得なかったといってよいであろう。    
 かくして、70年代の科学・技術の研究は、真に国民経済に貢献し、農林漁業生産の基礎に結びつくためには、研究活動の基本条件となる日本資本制経済、その土台の上にたつ農・漁業経済構造の変化・発展について、一定の科学的展望をもたなければならない。その基盤を背景として、研究活動および諸理論の効果と限界を明らかにし、研究の長期展望が用意されなければならないであろう。もちろん、それは大きな研究課題の1つであるが、科学的手続きをふむという条件が満されれば不可能な問題ではない。基本姿勢の基本、つまり誰のために、なにを研究し、施策するかということを、科学的に明らかにすることが基本となるであろう。
(所長)

Sakae Satou

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