伝統を受けつぎ人間を生かす施設

佐藤重勝


 昭和46年早春、東北にも遅い春が訪れる頃、増殖研究施設もようやく完成する運びになった。昭和24年東北水研増殖部が弧々の声をあげてから22年になる。この間研究課題も変り部員も変り創立当初からの部員はわずか23人に過ぎない。現在当部は経常研究のほかに特別研究”白ぐされ等の病因解明に関する研究”と別枠研究”浅海域における増養殖漁場の開発に関する総合研究”を行なっており、これら開発研究に対する社会的関心の著しい今日では、当部が開発研究一辺倒の姿勢となり、基礎理論、研究を軽視しているに違いないと即断する向きも少なくはない。そのような人達がこの施設を見る時、この施設の狙いが意外に地味なことに奇異の感を持たれるかもしれない。しかしこの施設は地域水研増殖部20年の歴史を受けつぐものとして設計されたもので、歴史の教訓はこの中にも生かされていると信じている。その意味で創立以来の足跡をたどり現在まで受けつがれてきたものを抜き書きしてみたい。
 創立当初の4、5年は基礎調査の時代とみることができる。丁度この時期は、戦後の食糧危機と占領軍の漁業政策の中で、漁業に転換資本が著しく流入して狭い漁場の中で漁獲競争が行われ、研究面では資源研究全盛の時代であり増殖研究は私生児ともいうべき待遇を受けた時代であった。実験机や標本瓶も充分ではなく、浜や漁民の生産状況を見てくらす毎日であった。但し増殖専門の人や地元の人が居なかったこともあって、皆が比較的熱心に現場を見たり古老の言を聞いたりという努力を重ねた。この時代の仕事は、主として生物相やその季節的変化及び重要種の生活史の研究であった。この時代に、意識下では生産漁民と基礎研究に対する態度の萌芽が芽生えたと思う。
 昭和27年からの略々10年間はノリ・カキの養殖技術研究の時代である。初期はノリの越夏状態である糸状体(conchocelis phase)の発見があり、これは急速にノリ養殖業に取り入れられ技術化された。また後期は、ワカメの養殖研究や各県水試と共にノリ病害に取り組んだ。カキについても、幼生の生態に対する解明等種々の技術的発展に寄与する成果があった。また後期は松島湾のカキ斃死問題に対する県水試、大学との協同研究が行なわれた。日本全体の情勢としては、昭和36年から国民経済の高度成長に即応して沿岸漁家所得を均衡的に上昇させることを目標に第1次構造改善事業が始められた。この情勢に応えようとする努力と共に、成果を常に基礎研究に返してもっと広く確かな科学的基盤を求めたのが、この時代の当部の特徴であったといえる。
 養殖業はこの間次第に進歩し、ノリ養殖業等は専業化に向って歩み始めた。しかし、安保改訂後の高度成長政策下の重化学工業の異常な発展と均衡した漁家所得を実現するには、養殖は一定の限界を持っているように考えられた。将来の画期的な沿岸水産生産の発展をはかるためには増殖に向わなければならぬ、もっと外海に眼を向けなければならぬ、という意見が強くなり、貝類研究グループでは強烈な論議の結果、外海性貝類の種苗生産研究を指向することになった。これが昭和36年である。この研究は略々5年間続けられ、アワビ種苗の大量(20〜30万)種苗生産の成功やアカガイ・ホッキ等の種苗生産技術の開発がされた。しかしこれらの成果は出発時の論点から再吟味され、生産体系に持ち込まれるための前提としての放流効果の検討に課題は引きつがれた。このような考え方の発展する中で科学技術庁資源調査会の「北部太平洋沿岸における水産増養殖に関する報告」の答申案作製に部員全員が協力したことは、技術を生産全体に関して位置づける姿勢を作る上で大きな力となった。
 昭和45年からは、いわば海洋開発開幕の時代に入った。別枠研究を引受けるに当っても、研究の発展段階に忠実であること、開発されるべき技術の生産全体に対する位置づけ、社会全体に対する影響等の論議を尽した末、妙なめぐり合わせもあって別枠研究を引受けることになった。この中では、これまでに得た生物生産の原理に立つ姿勢が、生産体系設計と技術展開を通じて大きな規模で試される秋であると思う。
 以上のような歴史的回顧の上にたって当部の特徴を考えると、第1に基礎研究の重視があげられる。云うまでもなく国立の産業研究所である以上、技術を通しての社会への貢献は常に追求され成果もあげてきたが、技術は単純な科学の適用ではなく、生産的実践における客観的法則性の意識的適用であるから、常時法則性と生産の場への適用条件の検討のための基礎への回帰が必要となる。一口で云えば、科学と離れて1人歩きをして tria I and errorの性格を増加させがちな技術を自然科学に近づける努力の表現とも云える。第2は産業に対する広い展望を持つことであった。この事自体は直接の追求目標ではないが、技術を正確に位置づけるために極めて重要である。増養殖研究に於てはこれまで産業に取入れらた技術をもって研究の成果の表現とする慣習が成り立っており、そのため産業観の基礎の上に打ち立てられた技術目標設計の理論は慎しみ深く秘められてきた。しかし内部的には論議は繰返され、成果実践のにない手である生産漁民階層の問題、場の立地条件、構造としての生産関係を含めて、増養殖生産全体の発展方向に対する一応の考え方とsystem engineeringは常に問題にされてさたと考える。
 上記の特徴を継承して、現在当部は国立水産研究所として正しい技術観の確立を指向している。それは、生物生産の原理の上に立って自然生産の構造と機能を明らかにする努力を続けながらも、局面における相対的真理とも云うべき自然の客観的法則を技術化してゆく方向である。これまでの水産学がこれら認識体系と実践体系の関連把握に於て欠ける処があった点を克服するためにも必要であると考える。
 増殖研究施設は上記の考え方を入れて設計し建設された。先ずこの研究施設が水産研究の発展の中で社会的消耗をしてゆく経過を想定して、この施設がこのままではout of dateになるのを8年として、それまでは100%能率的に使用し、その後は整備を一新する構想によった。そして第1に、基礎研究には大型電子顕微鏡や顕微分光光度計等の新鋭機をいれると共に、生産現場と実験室を短時間に繋ぐ高速調査艇海耕号を購入した。それをボート・ホイストとリフトで連絡した。第2に、飼育培養実験は制禦要因は簡単なものに止めて固定タンクは作らず、魚介藻のいろいろな種や生活段階に応じて空間は能率的に使用できるようにし、この面では極力実用性を重視した。第3に、之等はできるだけ近代的センスを研究者間に醸成させるための工夫がしてある。そして同時に環境の制禦された室が多くなるにつれて研究者がストレスを起して創造力を失うことを考え、できる限り外気と天然光を取り入れることができるようにした。また天然光が必要な実験は広いサン・ルームで行ない、その室で研修員を含めてミーティングが行える余地を作った。
 この施設が完成することによって当部の研究者の日常の研究生活は大きく変ることになる。しかし、これまで述べてきたようにこの施設がこれまでの研究の歴史を継承し発展させるものである限り、地域水研としてこれまでいっしょに研究と討論を続けてきた資源部と海洋部との繋りを断つのは誤りであると考え、本館には部長その他2名が略々常時勤務し昼食時に部員全員が本館に集合する生活設計を決めた。また、この施設を見学した県水試、大学の研究者の中からはこの施設を用いて協同研究を推進させる希望もあり、更に今後の高額研究機械購入について東北ブロック内の討議で適切な場所に配置し共用する意向も生れてきている。従って、この施設ができることによって施設に閉じこもるのではなくて、逆に水研増殖研究部門と東北ブロック研究者の全体に活動の場を拡げ、新風を捲き起す役割を果さなければならないと考える。
(増殖部長)

Shigekatsu Sato

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