退任にあたって−チュニジアで考えたこと−


稲田伊史


 釧路の冬の空港に降り立った人が思わず身震いするように,チュニスの夏の空港を一歩出ると,砂漠からくる熱気に目がくらむようであった。
 今年の9月初めにJICAの専門家としてチュニジアを訪問する機会があった。JICAから協力の要請があるまでは,チュニジアという国はサッカーのワールドカップで日本と戦った北アフリカ沿岸の国というボンヤリとした印象しか持っていなかった。その後,チュニジアは日本の国土の4分の1程度の面積で,人口は約920万人,主な産業はオリーブの輸出とカルタゴや砂漠体験の観光スポットがあることを知った。現地での第一印象はチュニジアの石と砂の文化と日本の木と川の文化の違いは基本的には「水の有無」がその国の文明の基盤となっているということで,「生物は環境の従属者である」ということを再認識させられた。
 首都チュニスでの会議は日本によるアフリカ諸国の海洋科学・技術に関する支援プロジェクト(AJIOST)の一環として開催され,筆者も「第1回海洋資源調査セミナー」のアドバイザーの一人としてキーノートレクチャーをするために出席した。このセミナーにはアフリカ圏のエジプト,チュニジア,モロッコ,モーリタニア,セネガル,ギニア,コートジボアール,トーゴ,ベニン,ガボン,ケニヤ,セイシェル,モーリシャスの13カ国の代表が参加し,まさにアラブ人とアフリカ人のまっただ中に日本人が入り込んだという感であった。もちろん日本の水産研究・水産技術が今まで蓄積してきた経験則をアラブ・アフリカ諸国の水産業の発展のために科学技術の側面からアドバイスすることは重要なことであるが,JICA自身のねらいは関係国に供与した調査船等を,減少している水産資源の回復に具体的に役立てるため,資源の評価方法等をレクチャーするためこの会議を設営していた。ことのねらいは別にして,この会議で印象に残ったのはアラブの人達に比べてアフリカの人々の底抜けの陽気さと,英語圏とフランス語圏の人々のものの考え方の違い,発展途上国の日本に対する無償供与の要求が当たり前という感覚に戸惑ったことであった。この会議で筆者が紹介した日本の資源回復計画としてのTAEについてはエジプトの研究者から,研究の成果を現場に活かす必要は感じていても,その政策を現実の問題として,例えば努力量の削減を実行することは至難の業であるとのコメントを受けた。日本が漁業先進国と自負するのなら,その手本を示すべき時期に来ているように思った。
 ところで,チュニジアの水産業は産業規模としては小さい方に属するのかも知れない(筆者は全体像を把握していない)。聞くところによれば,近年の問題として近海資源の減少,特に沿岸の底魚類(ハタ類,エビ類,ヒメジ類,タイ類)の小型化が目立っていること,また蓄養している大西洋マグロの日本への輸出価格が下落により打撃を受けていることであった。また,筆者はチュニジアの国立海洋科学・技術研究所(INSTM)に日本が供与したハンニバル号(200トン)でのトロール調査に参加した。漁獲物はタイ,アジ,ヒメジ等で,東シナ海の魚種組成によく似ていて,雑多な小型魚が漁獲された。余談になるが,新鮮な海産物の入手が困難なチュニジアで,INSTMでJICAのシニアーボランティアとして活躍されている中村泉・禮子夫妻の自宅で頂いたこの調査で獲れたアジのタタキの美味しさは今でも忘れられない。
 漁業という業はチュニジアであろうが,日本であろうが,一般的には生産活動が行われている現場で問題が発生し,問題の解決も現場にあると考えており,試験研究がその間に果たすべき役割には色々な局面があると思われる。遺伝学とか生理学といった基礎的研究分野は別にして,海区という現場にある研究部門は資源・海洋・増殖といった分野が互いに連携して地域の問題に取り組むことが重要で,例えば沿岸資源の減少という問題に対して,日本では沿岸生態系という概念の下で上記3分野の総合化という取り組みが求められているように感じる。また,底魚資源の評価についても,詳細な漁獲統計が整備されていないチュニジアのような国では,少なくとも魚種別の漁獲統計と調査船によるモニタリング(トロール,計量魚探,CTD等を用い)により,資源量や魚体の大きさの変化,海洋環境や魚種組成の変化を把握する必要があると会議では発言したが,日本でさえ調査船によるモニタリング体制が整備されていると言えるのか,自問している状況であった。
 前述したように,漁業ないし水産業は生産の現場で色々な問題が発生する。モニタリングにより問題の発生を予知する体制をきちんと整備し,また予知の難しいタンカー事故のような問題が発生した場合に的確に対応できる体制を整えることが重要である。さらに試験研究機関としては,問題の発生後の解決への道筋を,地域の試験研究機関や大学と連携して,基礎から応用,さらには行政部門も包括した体制の構築と問題解決への工程表を現場に説明する責任があるように思う。こうした中で一人一人の研究者が果たすべき役割も見えてくるものと考えている。
 最後にこんな言葉がある。理想と信念,自信と希望を持てば若くなる。理想を放棄し,疑念や恐怖心と絶望を持てば人は老いる。自戒の言葉としたい。
(前所長)

inada