東北水研八戸支所発足秘話

安井達夫


 八戸支所の前身は、昭和22年(1947年)3月31日に発足した農林省水産試験場宮古臨時試験地でした。第二次世界大戦で連合国に破れ、戦前、カムチャッカから南氷洋に至る西太平洋の全域に広がっていた日本の漁船漁業が、いわゆるマッカーサーライン内の日本周辺海域に押し込められた。半面戦後の食糧難で魚介類が闇値で高く売れたので、密漁船も加わり多数の漁船がひしめき合い、各地で漁業紛争が頻発していた。社会不安の拡大を恐れた連合国軍総指令部は、漁業秩序回復のため、水産資源に見合った操業の実現を図るために、資源の調査研究を行うよう日本政府に勧告した。
 これを受けて農林省水産試験場は、当時マイワシ研究の第一人者であった中井甚二郎氏の下に、全国各地の主要な漁港にイワシ調査員を置き、また、主要魚類の資源調査のため岩手県宮古、秋田県船川、兵庫県洲本、宮崎県油津などに試験地を開設した。石川県七尾には戦前から分場があり、ここには魚類研究者であった山本氏が派遣されたが、新設の試験地は、当時高山研究室と呼ばれていた旧漁撈部の配下で、試験地の主任は、いずれも漁業技術者で、その助手も、その春水産講習所遠洋漁業科を卒業した漁船航海士の卵たちだった。
 小生もその一人で、宮古臨時試験地に配属された。農林省は試験地の用地や建物を、県に提供させる方針であったが、岩手県は難色を示しているらしく、青森県とも交渉していて、八戸に移るかも知れぬというので、臨時なのであった。港湾工事が止まり、空き家になっていた宮古港工事事務所を借りて仕事を始めた。猿田主任の下に、元水試漁撈部に奉職し、兵役から復員してきた渡辺氏、1年前からイワシ調査員をしていた三河氏、新採用の橋本、神林の両君と小生、それに、朝鮮総督府釜山水産試験場から引揚げてきた庶務会計担当の館洞氏の7名であった。
 主な仕事は、中型底引き網漁業の減船整理のための、主要魚種の資源調査と、漁具漁法の性能比較と改良であった。このため、先ず、底引き網漁船の操業の状況、漁獲対象魚種と漁獲量を知ることが必要だった。無許可船に試験操業許可を与え委託調査船とし、漁獲物を与える代わりに、調査員(食料船主負担)を乗船させ、指定地点での漁獲試験と魚類標本の提供を義務づけるという方法であった。調査員は、引き網1回ごとに、投網位置、水深、風向風力、波高、使用網の型式、投網方法、曳綱の長さ、曳網方向、曳網時間、できれば水の流向・流速、海底状況、そして、魚種別・銘柄別漁獲量(函数や篭数)を記録するのだ。船頭は自分だけ心得た山立てと測深だけで船位を定めるので、調査員は独自に船位測定をする。また標本魚の採取を漁夫に任せると、値段の安い小さな魚だけを選ぶので、これも調査員が自ら採取しなければならない。揺れる船上での多様で忙しい仕事、窮屈なベッド、狭い炊事場兼食堂での食事。これには漁船航海士としての教育を受けた若者が最適だったのだ。ただし、漁獲魚の年齢組成を知るための、鱗や耳石や脊椎骨から魚の年輪を読み取る仕事は不向きだった。たやすく年輪が読める魚種は多くはない。季節変化が少ない深海の魚ほど年輪は明瞭でなく、これを読みとる技法の開発も、一つの研究対象であった。
 昭和22年12月、宮古試験地配属予定の調査船第一旭丸が竣工し、翌年4月に宮古に回航された。船長の安斎氏、機関長、ボースン、ナンバンなどは、蒼鷹丸から配転になった人たちだったが、その他の多くは新採用者で船乗りの経験も浅く、船長以下全員が漁撈の経験が無かった。地元漁師を乗せ、底引き網の練習を始めたが、なかなか慣れず、一度東京に戻り、再び宮古に来たときは、船長は若い元気な石橋氏に交替していた。その後、漁撈に習熟した第一旭丸は、昭和24年2〜3月、収入予算稼ぎに小樽へ出向き、漁船並の昼夜ぶっ通し操業を続けた末、中学校を出たばかりの青木君を、揚網作業中の事故で失った。留萠病院の待合室での通夜では、連日の重労働で疲れ切った船員たちが、我慢しきれずに泥のように眠ってしまった。調査員として参加していた小生の脳裏には、この時の情景が、いまだに焼き付いている。
 昭和24年4月、水産試験場が海区水産研究所に改変され、残っていた各地の試験地は、それぞれの海区水研に所属した。しかし、宮古臨時試験地はその後1年間、東海区水研に所属した。発足の経緯、研究課題、人脈が、カツオやサンマの漁場形成や漁況を研究する東北区水産研究所と異っていたので、東海水研にこだわったのである。しかし、この間に八戸への移転準備が進み、青森県と八戸市が庁舎と妻帯者の宿舎を用意して待っていた。試験地は支所に格上げになり、仕事の内容を充実させるため、資源・生物研究と深海漁場開発や漁具に関わる研究を分離確立することとし、昭和25年4月、生物科長に笠原氏、深海科長に丸山氏を迎え、東北区水産研究所宮古臨時試験地と名称を変え、同年5月6日、機帆船に全財産を積み、一晩で八戸に引っ越し、八戸支所が開設された。そして、今もなお、名称こそ変われ、東北海区の魚類資源研究のセンターとして活動を続けている。
(元 企画連絡室)

Tatsuo Yasui

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