底魚から浮魚へ

山口ひろ常


 私が八戸支所を離れてから、既に丸々6年が経過しました。支所在任は、昭和59年8月1日から平成5年3月31日までの8年7ヶ月に及んだことになります。昭和39年4月に東海区水産研究所資源部に入省以来、昭和42年の遠洋水産研究所発足による所属(看板)の変更はありましたが、従事していた仕事は専らベーリング海・アラスカ湾の底魚資源の研究でした。遠洋研時代は「北洋底魚資源研究室」に所属して、主にスケトウダラの資源研究を行っていたのですが、八戸支所ではマサバ・スルメイカを研究対象とする「第2研究室」(後の浮魚資源研究室)に配置換えとなりました。当時は室長人事で他の水研へ転勤することはあまり無く、しかも同じ資源部とは言え研究対象が底魚から浮魚へと180度転換する例は殆ど無かったと思います。
 前任の佐藤祐二さんは4月1日付けで東海区水研の数理統計部長に転任されているにもかかわらず、私の方がベーリング海における日米共同の底引き網調査への乗船が決まっていたことと、その結果を秋のINPFC年次会議の会議資料として纏める必要があったため、8月の移動と4ヶ月遅れの発令となった次第です。
 一家4人がマイカーに乗って、東名高速から東北自動車道をたどり、途中で塩釜の本所に顔を出して篠岡所長以下の皆さんにご挨拶をし、市場近くの船員会館に宿をとってもらって仙台の「七夕祭り」を見学してから、八戸に向かいました。たどり着いた八戸はお盆前の一番暑い盛りの時期で、水研の玄関脇の紫陽花がまだ花を着けていたのが印象的でした。当時の支所長は「サンマ」の福島信一さんでした(その後、「海洋」の武藤清一郎さん、「サバ」の飯塚景記さんと3人の支所長に仕えました)。
 我が第2研究室には、マサバ・マイワシ担当の小滝一三さん、さば・いか両方を担当していた久保田清吾さん、スルメイカ・アカイカ担当の橋場敏雄さんがいました。隣の第1研究室(後の底魚資源研)には、室長の三河正男さん、橋本良平さん、小谷地 栄さん、石戸芳男さんがいました。三河さんは蕪島のウミネコの観察等野鳥関係でも有名な人でした。
 支所のある八戸市は、第1から第3まで三つの魚市場を持つ太平洋側における屈指の水揚げ港を持った漁業の町です。特に、大中型まき網漁業によるマサバの主要水揚げ港としての位置づけが大きく、毎年9〜12月の秋漁の漁況予測が研究室の大きな仕事でした。また、いか類の水揚げ港としての位置づけも高く、沿岸・近海のいか釣りによるスルメイカの水揚げ以外に、太平洋沖合のアカイカ流し網漁業や海外の大型いか釣り漁業の漁獲物の大部分も水揚げされていました(アカイカの流し網は無くなったが、他の漁業への対応は現在も持続しています)。
 私が八戸支所へ赴任していった昭和59年という年は、前年まで八戸港には13万トン以上の水揚げがみられていたまき網のマサバが、一挙に6万トン台にまで減少した時でした。「市内の何処にいっても灯が消えている状態」と地方紙等が大きく取り上げており、関連業界の人々から、将来予測の問い合わせが沢山寄せられました。これまでトロール網で調査を行い、現存量を如何に正確に把握するかという仕事に従事していた者には、多獲性浮魚類の漁況の予測や、資源変動の将来予想は初めての仕事であり、つかみ所のない対象に幾分かの不安感が有りました。幸い前任者以下超ベテランが永年にわたって築いてきた経験則の蓄積があり、それを見習いながら予報作業等を続けることが出来ました。漁期になると毎朝第2魚市場から聞こえてくる場内放送で目を覚まし、朝の散歩で水揚げ状態をチェックし、漁連の事務所等にも顔を出して、漁場や漁況の情報を得ていました。サバが不振となったまき網漁業の方は、それまで従の位置にあったマイワシへとターゲットを切り替え、昭和63(1988)年の太平洋側年間漁獲300万トンのピークへと突き進むことになりました。
 四国は愛媛県南予育ちの私には、イワシとはカタクチイワシのことであり、マイワシは「朝鮮いわし」と称して、たまに魚屋から購入し、炭火で塩焼きにするものとの認識しか有りませんでした。ベーリング海母船式底引き網漁業の母船上で、数百トンのスケトウダラの山は見慣れておりましたが、専用トラックに山と積まれるマイワシをじっくりと見たのは八戸が初体験でした。毎年、用船した北海道教育局実習船管理局「若竹丸」に乗船し、道東から常磐の沖まで流し網と小型トロールによる調査を実施しました。調査の目的からは外れますが、図鑑に示された親の体色からは想像もつかない「アオザメ」の名前が、網に掛かってきた幼魚の体色から納得できたりしました。
 今や、私が支所在任中に机を並べた研究者の殆どが定年退官されました。特別採用で岩手県水試から来た北川大二さん(現・資源評価研室長。彼は、一度塩釜本所に出て再度帰ってきた)と新規採用で浮魚資源研究室に来た川端 淳さんの2名しか、かっての仲間は残っておりません。平成10年10月1日に水研組織の改正があり、平成9年からスタートしたTAC制度への対応が、現在我々水産研究所に課せられた使命となりました。TAC対応も漁業者との繋がりという点では漁況予測と同じと云えましょうが、資源研究者には生物学的許容漁獲量(ABC)算定の精度向上が至上命題となった感があり、なんとなく現場(=漁業者)とは離れた感じがしてなりません。以前の行政監察の時に、「なぜ、八戸に支所が必要なのか」の理由を明示せよとの文章作りの作業が降ってきて、困惑した記憶がありますが、「八戸は、漁業者との接点が一番近い研究所である」ことを理由として上げたように思います。
 今回の組織改正で魚介類の生態に合わせた「浮魚」・「底魚」という判りやすい研究室分けから、機能別で複雑な「生態」と「評価」と云う2研究室体制での業務対応の大変さは、同じ条件の日水研職員として理解できます。水産研究所の看板は資源研究部門であり、それが集中された現在の八戸支所には、新勢力を注ぎ込んで何時までもその存在をアピールし続けてもらうことを期待します。
(元 八戸支所  現 日本海区水産研究所)

Hirotsune Yamaguchi

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