資源研究のはじめ

渡邊良朗


 照洋丸が1300トンの白い船体を回して塩釜港を出港したのは1984年2月はじめのことでした。「照洋丸は水産庁調査船でも開洋丸の次に大きい船だから、めったなことで揺れない」と谷野室長に請け合われて、前年4月に東北水研資源部浮魚資源第1研究室に配属された私は、生まれて初めて1ケ月の長期航海に出ました。出航して丸1日、東経142度線に沿って伊豆列島東の海域を南下しながら、稚魚ネットと高速ネットを曳いてサンマを採集し、水温観測とプランクトン採集を行って次の点へ向かうという調査は順調に進みました。360度見渡す限り陸が見えない水平線も、月に照らされて金属のように鈍く光る海面のうねりも、すべて初めての世界でした。
 風が吹きはじめたのは出航翌日の夕方でした。シベリア高気圧から日本列島を越えて黒潮の海へ吹きつける冬の北西風は次第に照洋丸を大きく揺らし、夜に入ると甲板での作業はできなくなりました。強まる風の中で、照洋丸は風上に船首を向けて微速前進するササエにはいりました。船首の船底が波に打ちつけられるドーンという大きな音と、その後に伝わってくるビリビリという恐ろしい船体の震動が私の部屋を揺らしました。腹腔の中で胃袋が上下左右に動き回るのを感じながら、私は狭い寝台から起きあがることができなくなっていました。
 翌日になっても翌々日になっても風は収まりません。ササエながら北西へ微速前進を続けた照洋丸はしだいに本州中部に近づき、それにつれて風は収まるかに見えました。照洋丸は反転して調査海域に向いました。しかし、調査海域に近づくと再び風が強くなり、また北西に船首を向けてササエにはいらざるを得なくなりました。窓のない私の部屋では、いつが昼でいつが夜かわかりません。もう何日経ったのか判然としないもうろうとした頭で、「この航海が終わったら水研を辞めよう」と私は真剣に考えていました。照洋丸が再び本州中部に近づき、「調査海域ではまだ時化が続いているので、一端入港して冬型の気圧配置がゆるむのを待つ」という大村船長の判断によって清水港に入港したのは、塩釜港出航1週間後のことでした。
 興津岸壁に接岸した照洋丸から陸に降り立ったとき、私は猛烈な空腹を感じていました。寝台に横になったきり焙じ茶と梅干しとリンゴだけで過ごした5日間で、私の体重は5キロ減っていました。体はまだゆらゆらと揺れていましたが、冬晴れの空に真っ白な富士山を望むそば屋で食べた天ぷらそばは最高でした。私が経験したこのシベリア高気圧が、経験豊かな大村船長に「照洋丸ほどの大きい船でこれほど長くササエっぱなしということはこれまでにない」と言わせるほど強いものだったことも後から知りました。
 私の資源研究はこのようにして始まりました。水研を辞めようという考えは天ぷらそばとともに消えてしまったのでしょう。私は今でも資源研究を続けています。大学院では野外で採集した魚を実験室で飼育して研究した私にとって、資源研究最初の経験は海に出て研究することの大変さを痛感させるものでした。船酔いもさることながら、2〜3時間走るごとに小さいネットを曳網して得られるわずかの標本によって、この無限にも思える広大な海について何ほどのことがわかるのかという思いは、資源研究最初の大きな疑問でした。そして、どのようにしたらこの広い海で魚の生態がよくわかるようになるのだろうか、ということが私の課題となりました。
 野外調査と室内実験を組み合わせた研究というのがその答えの一つでした。資源研究の対象魚種では生物学的に未知のことがたくさんあります。その多くは、水産研究所設立以来の野外調査や市場調査に基づく研究によって解決されないまま残されてきた課題です。実験的な手法を取り入れて未解決の生物学的な問題を一つずつ解決し、それを新しい武器として野外調査に出ることが、資源研究の新しい展開に不可欠であろうと考えました。もうひとつは、自分なりの方法論に基づく研究です。ここで言う方法論とは分析や解析のテクニックのことではなく、対象生物をどのようにとらえるか、それに基づいてどのような研究を組み立てて真の姿に迫るか、という考え方のことです。例えば「サンマは秋に三陸常磐沖、冬に黒潮域、春に再び三陸常磐沖で産卵され、それぞれの発生群が1年以内に資源へ加入する」とサンマの生活史をとらえ、それに基づいて「秋、冬、春の産卵期に仔稚魚の発生量と成長生残過程を定量的に把握して新規加入量を予測する」という方法を用いてサンマの生態と資源の本質に迫るという計画を立てます。この計画に基づいた調査と分析によって、サンマ生活史のとらえ方が妥当であるか否かを検証するという研究サイクルのことです。このような仮説検証の繰り返しが野外研究で不可欠であると考えました。
 東北水研におけるサンマ資源研究の永年の蓄積は、水産研究所における資源研究の中でも最も充実していました。北海道から静岡県までの水産試験場との共同研究体制は実質的なものでした。産卵期の発生量や初期成長速度と生残率、北上期の東北沖合における魚群量、索餌期の千島列島海域における魚群量という3つの調査船データセットに基づく資源量予測。水研、水試、漁業情報サービスセンターの共同調査でリアルタイムに把握される漁期中の漁獲状況。産卵期から漁期未までサンマの一世代に相当する期間の調査データと漁獲状況の総括を行う3月の資源研究会議。調査研究の質量とも、サンマに比肩しうる魚種はほかにはありません。凪の日のきらめく海、コバルトブルーのふ化直前のサンマ卵、大きくうねる海面すれすれに飛ぶクロアシアホウドリ。実験室では味わえない自然とともに、東北水研での9年間のサンマ資源研究は、野外研究についての考え方を整理してそれを実行する絶好の機会を私に与えてくれました。そしてそれは私の資源研究の礎となりました。
 東北水研に入って7年目、北海道教育庁の若竹丸で塩釜を出航して数日が経ち、ほとんど船酔いしていない自分に気がついたとき、私も何とか野外資源研究者の仲間入りができたかなと感じました。船には強くなっても、海を相手にした野外研究の難しさには変わりありません。毎年入学してくる大学院生に、私が味わった自然の大きさと野外研究の大変さ、そして海の魚の生態に迫る快さを伝えて行くことが今の私の仕事です。
(元 資源管理部  現 東京大学海洋研究所)

Yoshiro Watanabe

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