水産庁への第一歩

氏家武士


 私の水産庁への第一歩は、この地、八戸から始まった。
 35年前の昭和39年(1964年)、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した記念の年であるが、一方、この年の6月新潟地震が起こった年でもある。
 日本海側の海辺の片田舎に住んでいた私は、水産庁への就職内定があり、新しい人生の出発点への希望に期待と不安を抱きながら、指折り数えその日を待っていた。
 穏やかな晴天の日の真昼過ぎ、突然襲った地震は縦揺れから横揺れに変わり、その衝撃は生まれて20年余体験したこともない私の体を包んだ。あわてて家を飛び出した私がそこで見たものは、道路が裂け黒い地底はポッカリと穴が開き吸込まれそうな不気味な姿がそこにあった。そして、遠浅である浜の海辺の水が見事に引き、干潮では見られない海底の岩礁が黒々とその肌を表していた。津波の発生である。
 海水は、川が逆流するかのように浜に押しよせる。海岸の土手(4〜5m)にぶつかった水は行き場を失い、失った分高く盛り上る。そして、土手の高さの限界を超すと道路に溢れ、道路を隔てた私の家の庭先まで流れ込んだ。暫く水は庭先で遊び回り、川が流れるように去ってゆく。そして又、海は100m先程まで黒い岩肌を表し次の逆流を待つ。水の速さに乗り遅れた魚類が右往左往する光景が私の脳裏をかすめる。
 港の中は海水で満杯となり、漁船を沖に出す人、ロープで流れないように船を繋ぐ人、混乱の状態が続いた。川の流れは、20〜30分間隔でこれを繰返し、徐々に水量も少なくなり流れも穏やかになった。4〜5時間位続いただろうか。幸い、私の家の庭先の水は10cm程度の高さであったから家は流されずに済んだ。
 しかし、余震は続いた。怖くて一晩中寝れなかったことを今でも思い出す。
 地震発生2日後、私は就職のため東北水研塩釜に向かった。しかし、地震の影響で鉄道線路はあちこちで寸断され、バスでの振替輸送や汽車を乗り継いでの旅だった。
 車窓の景色を眺めながら、その時私は思った。「人生のスタートだというのに最初から付いてイナイナー、今後の我が人生を暗示しているのだろうか、しかし人生に困難は付き物である。一つ一つの困難にぶち当たっていこう」と。
 東北水研塩釜に着いた私は、当時の庶務課の担当者から簡単な面接と乗船中の心得をお聞きし、八戸へ行くべき東北本線夜行列車に乗込んだ。7〜8時間位乗車しただろうか。
 東北本線から八戸線に乗換え、ウミネコの島で有名な蕪島のある「鮫」の駅に到着したのは早朝の6時過ぎだった。薄もやの中に、魚の匂いと海の香りが私の鼻を包み日本一の水揚量を誇る港町八戸がここにあった。
 駅まで出迎えてくれた「わかたか丸」の乗組員の案内により、蕪島のウミネコの声に迎えられた私は、木造船ではあったが「漁業調査船 わかたか丸」に初めて足を踏み入れたのである。私には記念すべき人生のスタートの日でもあった。
 その日から、調査船乗組員としての私の生活が始まった。85トンの船内は狭く、設備も貧弱で現今の調査船に比べ雲泥の差があったが、船内生活や調査業務は楽しかった。
 最初の難関はやはり言葉の問題で、私の田舎(山形・鶴岡)の言葉も八戸の言葉も同じ東北弁だから理解出来るものと思っていたが、それが大違い。早口で話されると全然分からず何度も聞き返し、最後に怒られたものである。ある時「ちょっと、はしっこ持ってこい」と云われ、私は返事をしたもののロープの端か、テーブルの端を押さえるものと思っていたが、「お前、食事するのに‘はし(箸)っこ‘いるだろう」と云われ納得したものだった。後で聞いてみると、この方言、何々っこは、丁寧語だそうである。
 底引き網による調査、イカ釣り調査、海洋観測等、私にとっては初めての経験であり興味探かった。さば一本釣りによる標識放流の時は、夜間であるため集魚灯でさばを集め、短い竿で一本釣りをするのだが、魚が釣れ、調査員とベテラン乗組員はさばに標識を打ち放流し、私は釣り役で夢中になり、後ろで痛いという悲鳴。見ると私の釣り針は当時の局長の耳を釣っていた。針に返しが無かったから良かったものの平謝りした事を覚えている。
 八戸の冬は厳しかった。船内に風呂がなく毎日銭湯に通うのだが、風呂上り船まで歩いて帰り着くと、濡れたタオルが垂直に立った。経験した事のない出来事だった。
 陸上職員との交流も盛んだった。船が停泊中、陸上行事にはよく参加した。
 船の人を含め何人かで秋の十和田湖に小旅行したことがある。皆カメラが趣味で高級なカメラを持ち歩き写真撮影に余念がなかった。小雪の降る日であったが、真っ赤な落ち葉の上に真っ白な小雪、そのコントラストの素晴らしさは今でも脳裏を離れない。素晴らしかった秋の十和田湖、機会があったら是非もう一度行きたい。
 私は、ここでは10ヶ月の短期間であったが良い人達に恵まれ、良い体験をさせて頂いた。私の旅は、こうして、この地、八戸から始まったのである。
(元 わかたか丸  現 新潟漁業調整事務所)

Takeshi Ujiie

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